2010年2月27日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート35

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート35」だ。

諸君、子路(しろー由)先輩と冉有(ぜんゆう―求)先輩の話を門人仲間から聞いて知っていた弟子の公西華(こうせいか―赤)は、「ただちに実行すべきか?否か? いったいどっちなんだ? 先生が何と考えておられるのか釈然としない。」
真意を知りたくて知りたくて悶々としていたんだね。

そこで孔子先生に個別で指導を仰ぐ機会を得た。
「やったぜベイビー! やっとスッキリする!」
赤(せき)はこおどりして喜んだとか?

「先生、由(ゆう)先輩が『教えを受けたら、ただちに実行すべきでしょうか?』とたずねたのに対して、先生は、『由には父兄がいることだ。 父兄に相談してから実行にうつしなさい。』とお答えになりました。 ところが、求(きゅう)先輩が教えを受けたら『ただちに実行すべきでしょうか?』とたずねると、『そうすべきだよ』とのお答えでした。 どうも腑に落ちません。 どちらが正しいのでしょうか? 先生の真意はどちらにあるのでしょうか?」

「それはな赤よ、こうなんだ。 求は慎重すぎるのはいいのだが、性格は引っ込み思案なんだね! それでは『いざ』というときに決断と行動がとれない! だから積極性をうながしたんだね。 かたや由は、無鉄砲な無茶をする性分で、人の分までやろうとするよけいなおせっかいするところがあるから、慎重に考慮するように、手綱を引き締めたのだよ。」

「先生、そうだったんですか! 先生の真意もわからず、失礼なことをおたずねしました。 お許し下さい。」

「なんのなんの、素直な疑問があれば、謙虚に問うべきだ。 問われぬものは、私とて答えようがないからね!」

ま~、こんな会話が、論語の中にあるんですな!
ボディーもマインドもスピリッツも同一の人は誰もいません。
人の数だけの対人、対機説法論語があるんですな!
それぞれ聞く耳も、聞く心も違いますからな!
孔子先生の真意は、人の個性、性格を知って、心得ていての人材(じんざい)人財(じんざい)育成にあったんだね!
人それぞれの良いところつまり長所をさらにわかっていて育て伸ばす。
また短所も見方をかえれば個性であって長所となりえる。
それをわかっていてどう見るかによってのとらえどころなんだね。
それを知り、良い方向に導き、伸ばしていこうとしたんだね。
人は真の指導教育によって人財になりうるんですな!
諸君はどう思われますかな?
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年2月26日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート34

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート34」だ。

諸君、「人を見て法を説け」という成句はご存知であろう。
釈迦が相手の能力や人柄に応じて法を説いたことから、人に応じた働きかけをしなければ、相手の気持ちをつかむことはできないということを言うんだね。
仏教では、「対機説法」とも言いわれているね。
相手の個性能力に応じてわかるように法を説くことなんだね。
別に、釈迦に限らず、孔子先生も弟子に同じことを質問されても、その返答はその人の「わかる」ように「わかる」を教えていたんだ。
そのゆえ返答が一様ではなかったんだね。


子路(しろ―由)問う、
「聞くままにこれを行なわんや。」

子曰く、
「父兄在(い)ますあり。 これをいかんぞ、それをきくままにこれ行わんや。」

冉有(ぜんゆう―求)問う、
「聞くままにこれを行なわんや。」

子曰く、
「聞くままにこれ行え。」

公西華(こうせいか―赤)曰く、
「由(ゆう)や問う、『聞くままにこれを行なわんや。』 子曰く、『父兄在ますあり。』 求(きゅう)や問う、『聞くままにこれを行なわんや。』 子曰く、『聞くままにこれ行え。』 赤(せき)や惑う。 あえて問う。」

子曰く、
「求や退(しりぞ)く。 故にこれを進む。 由や人を兼(か)ぬ。 故にこれを退く。」



子路が孔子先生にたずねた。
「先生の教えを受けたら、ただちに実行すべきでしょうか?」

孔子先生は答えた、
「子路は父兄がいることだ。 父兄に相談もせずに実行していはいけないな。」

弟子の冉有がたずねた。
「先生の教えを受けたら、ただちに実行すべきでしょうか?」

孔子先生は答えた、
「オフ コース! そうすべきだよ。」


諸君、あれ~? 孔子先生、言っていることに一貫性がないよな!
これじゃどうしていいのか弟子も迷っちまうよな!
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年2月25日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート33

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート33」だ。

諸君、諸君は一を聞いたらいくつ「わかる」を知ることができますかな?
私なんかは百を聞いて一わかるかな?
諸君はいかがであろうか?

「そうか、これで決まりだね。 神北(かんぺき)殿これより孔子塾門人とする! 諸先輩の指導を仰ぐとよい!」

神北答えて曰く、「はい、ありがとうございます! 『仁』の体現を目指していく所存です。 孔子塾門人の一人として恥ぬよう心がけて精進いたします!」

「子路(しろ)よ! 由の紹介であるから、神北の面倒をよくみるように。 いいな!」

子路問て曰く、「先生、けつの青い回(かい)や子貢(しこう)の意見で決めるやり方は、正直言って気にいりません! 由は納得できません! 神北の入門について先生はどう考えておられるか、先生のご意向をおききしたい!!」

「子路よ、お前の話があったときから、神北の入門は許していたんだよ!」

子路日<、「では何故、回や子貢に決めさせるのですか?」

「実は、先日、子貢と話をした。 『子貢よ、回と君はどちらが上だと思うかね?』と問う
たんだよ! ここにいる子貢は、『顔回先輩はーを聞いて十を知る。 一方、私は、一を聞
いて二を知る程度です!』と私に答えたんだね。 子貢よ、そうだったね!」

「はい、そのように申し上げました。」

「この返答で、今朝の入門者の話を聞いて、優等生の回と子貢の二人に入門の選択をまかせることにしたんだよ。 君子の立場より鑑(かんが)みて、人を正しく見極めるという機会は回と子貢の両人の実学になると考えたからだ。 子路、合点がいったかね?」

諸君、孔子先生にはそういう意図があったんだね。
孔子先生は、天分の天命をもった天性の教育者なんだね!
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年2月24日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート32

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート32」だ。

諸君、孔子先生の返答、「わかる」かな?
「わかんねえ」だろうな?
「わかる」と一言で言っても本当に「わかる」となると深遠なものですな!
この「わかる」とは理屈抜きで「わかる」ということではないかね。
あえて正しく「わかる」とは、スピリッツ(霊魂)がすでに知っているんだね。

子路(しろ)曰く、「神北(かんぺき)や子貢(しこう)、回(かい)の言っていることもわかりませんが、先生の言っておられることは、輪をかけてわかりません! 『わかる』『わからない』は、それぞれの理解度によって個人差があるんですよね! そうであるならば、もっと世間一般ピープルに合わせてわかるように教えていただきたい!」

「子路の言う通りだね。 それぞれ、天から与えられた固有の性能を有しているのだ。 皆一人一人違うことはわかっているよ。 とにかく子路よ、由(子路)がぜひ会ってくれと連れてきた相手だ。 ここで神北殿を門人とするのかしないのかの是非を顔回と子貢の二人に決めてもらう! 二人の意見が割れた場合は、私が決めよう。 子路は当然入門には異存はないであろう。 回、子貢、異存はないね!」

顔回答えて曰く、「はい! 回は異存ありません。」

「はい、子貢も異存ございません。」

「では子貢よ、神北殿を門人にするか? 否か?」

「はい、神北殿を門人に迎えます。」

「顔回はどうかな?」

「はい、神北殿を門人の同志として喜んで迎えます!」

子路の筋書き通り運んでいるようだね。
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年2月23日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート31

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート31」だ。

諸君、いよいよ孔子先生が返答をする番だね。
何と言われるか楽しみだねぇ~!

子こたえて曰く、「神北(かんぺき)殿、そして子貢(しこう)、顔回(がんかい)の『わかる』は、皆、的(まと)を得た解答であったね! 万物の霊長たる人間は、『体』という『ボディー』と『心』という『マインド』と『霊魂』という『スピリッツ』の三位一体でできているのだ。 どれをぬいても人間として存在できないし、人間で在るとは言えないんだ。 それはどうしてかと言うとな、人間は、神でもない、また他の植物や動物でもない!  自然物ではあるが、神念(おも)う、天念う、地念う、万物念う、他者念う心性をもった霊的存在である。 また真理を慮(おもんばか)り、それを表現出来る権能を天から与えられている存在でもあるんだ。 そして人の霊魂よりくるところの本心良心がある。 それが天秤ばかりのバランスをはかる中心軸になる。 『自分には何がわかっているか、また何がわかっていないのか』というこの区別を本心良心よりくるところの悟心で得心すること、それが『わかる』ということなのだ。 つまり悟心とは、心がはっきりと澄んだ心で道理を明瞭に理解し、納得した心の状態、つまり正しく自覚している心の在り様のことだ。 本来、天には相対的な善悪も存在しない! 人の心を介することで、天秤ばかりが、善にも悪にもはかること、またはかられることになる。 その道理を己の心が知っていて、わきまえていることが、『わかる』ということだ。 その『わかる』心は、物事のあらわれやものの本質も自明することとなる。 『仁』の心が何たるかもわかるというものだ。 仁者への道でもある。」

一同、先生の話に、あ然として、ただただ、沈黙の静寂があった。
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年2月22日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート30

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート30」だ。

諸君、「子曰く、後生畏(おそ)るべしいずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや。」うんぬんというのがありますね。
年が若いということは、これからの将来に大いに希望があるということだ。
若いものの今後の世代が現在の時代をつくって中心をになっている世代を乗り越えていかないとは言えないのだ。
2500年前からこのようなことを述べているんだね。
昔も今も、「今の若い者は」「今どきの若い人は」という言葉をよく使うね!
そう言っている人も若い頃があったんだよね。
またそう言われていたんですな。
明治9年生まれの私もそうでしたよ!
私の若い頃は手がつけられなくてね!
「今どきの若い者は」とか、その逆もあったね。
「今どきの若いものにしては殊勝である」とかね。
いつの時代も決まり文句でこのように使われているんですな。
そんな私が、後々、多くの人の前で人生について偉そうに話をするようになった。
自分事であるが、実に後生畏(おそ)るべしですな!

神北(かんぺき)答えて曰く、「『わかる』とは、心と体で理屈抜きに自覚している状態のことを『わかる』と言うと考えます。」

「なるほど。 神北殿、よい返答だね!」

「子貢(しこう)はどうだね?」

子貢答えて曰く、「はい、以前先生は、『良心を偽らぬこと忠なり』と、また『他人への思いやりを恕(じょ)なり』と言われました。 『これが人倫の根本である』とおっしゃった。 その根本を感得する心の在り様、その状態が本当に『わかる』と言えると考えます!」

「子貢よ、とてもよい返答だね!」

「回(かい)はどうだね?」

顔回(がんかい―回)答えて曰く、「はい、私も子貢と同じく、以前先生から『私という人間は、ただひとつの原則(プリンシプル)だけで貫かれているのだよ。』ということを聞きました。 霊魂よりくるところの本心良心をプリンシプルとして、それが人倫の基本として、『してよいこと、してはいけないこと』の判断の基準となると考えます。 それに合わせ、『わかる、わからない』と言えるのではないでしょうか。」

「回よ、とてもすばらしい返答だね!」

諸君、孔子先生は、人を育てるにかけては天才的に上手だったんだね。
この才分は、孔子先生のもつ天分の天命によるものだと思うのだがね。
天命を知るとは、自己のもつ天命の天分を知るということに他ならないんだね、きっと!
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年2月21日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート29

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート29」だ。

諸君、学問とは、読んで字のごとく学んで問うということですな。
誰に学んで、誰に問うのか?
孔子先生は、「仁」を志す者は同じ同志として師弟間の問答のやり取りで実践的に自分のものとして学んでいくスタイルを大切にしていたんだ。

子貢(しこう)曰く、「待って下さい。 回(かい)先輩、私、子貢も先生より門人に推挙するしないの是非を委ねられています。 せっかく、この場をかりて、先生にお題をいただき、それぞれの見解を述べる! それから決めても遅くはない。 けっして神北(かんぺき)殿にも失礼にはあたらぬと考えますが! 先生いかがでありましょうか?」

「そうだな。 せっかくの茶会、ゆっくりと互いの会話を楽しもうではないか? どうだね、回よ? どうだね、子路(しろ)よ? いかがですか、神北殿?」

「先生、回は異存ございません!」

「先生、子路は異存ございません!」

「先生、神北も異存ございませぬ!」

「そうか、では、大先輩の子路からたずねるとしようかね。」

「はぁ~、私からですか?」

「そうだよ、長幼の序(ちょうようのじょ)にしたがって子路の考えを先に聞くことにする。 ましてやこのきっかけをつくってくれたのは他ならぬ子路だからな!」

「はぁ~、ま~そうですか?」

「由(ゆう)よ、『わかる』とはどういうことかね?」

「はぁ~、『わかる』ということですか? それは、『わかっているから、わかっている。 わからないことは、わからない。』じゃないですか?」

「子路よ、その答えでは、孔門の弟子としては浅はかな返答ではないかね?」

「はぁ・・・」

子曰く、「神北殿はいかに?」

孔子先生、ならび孔門の十哲の三大弟子の前で、神北いよいよ自分の考えを述べることになった。
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風