諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート12」だ。
諸君、手前事なんだが、生前の中村天風は明治九年(1876)7月30日、今現在の東京北区王子に生まれたんですよ。
本人はおぼえてませんがね!
渋沢さんの邸宅がJR京浜東北線の王子駅の坂上の飛鳥山にあるね。
父は中村祐興(すけおき)、母テウの三男坊で生前の私の本名は中村三郎です。
私の著書等で、ご存知でありましょうが、父中村祐興は九州福岡の柳川藩主の立花家につながる出身で、渋沢栄一氏が退官した後に同じ大蔵省の役人になったんだね。
ここで渋沢哲学と天風哲学の共通点をあげて述べてみたい。
今回のテーマは、「論語と算盤と天風哲学と電卓」というテーマになっているね。
この電卓は、天風の生前中に開発されたものなんですぞ。
電子式卓上計算機の略でね、1964年(昭和39年)に商品化した製品としてはシャープが開発した日本初の電卓なんだね。
カシオが「答え一ぱつカシオミニ」なんて電卓のTVコマーシャルがあったね。
その後に日本や世界に電卓は普及していくことになったんですな。今では、カシオも世界最先端の時計メーカーの一つになったものな。
もちろんシャープやカシオも電子辞書やハイテク機器メーカーでもあるがね。
シャープさんなんかはソーラーカンパニーをうたい文句にしているね。
ご存知の通りですよ。
諸君の携帯電話にも電卓機能が当たり前に入っているね。
そろばんじゃないよな。
時代の変遷によって、生成発展してきているんですな。
日々新たなりだね。
私は明治生まれ、渋沢さんは江戸天保の生まれだが、お互い90歳を超えての長寿であった。
ちなみに孔子様は73歳で他界しているとされているのだが、その当時の時代では長命だね。
今どきなら、90歳位に匹敵するのだろうかねぇ?
お互い両人とも、個人的にはエポックメーキングとなった画期的な新しいものが好きなんだね!
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート11」だ。
諸君、昨日は「六十にして魂(たましい)の声に心の耳をそばだてるようによく聞くようになった」と述べました。
この次は、齢(よわい)「七十にして、心の欲するところに従えども、矩(のり)を超(こ)えず。」、この天風哲学的解釈は、人間の「心」はこの世に生きゆくための不可欠な要具である。
この要具である心が働くと思ったり考えたりする思考になるんだね。
心の働きはてぇっと、思ったり考えたりすることが仕事なんだ。
心が何にも思考していない時は、表向き心の要具は働いていないんですな。
そんなことは当り前だね。
その心の働いている状態をさして〈意識〉と言っているんですよね。
好きで好きでたまらない、愛しい人に片思い!
なかなか相手に直接言葉にして、告白出来ない。
諸君も経験ありますかい?
これって、片思いなんだから、相手のこと思ったり考えたりしている、心が働いている状態ですよね。
つまり、意識しているということだね。
孔子様は、長い月日の間に、意識しようとしまいとに関わらず、〈習慣は第二の天性〉と言われるように、潜在意識に心の天器が出来上がっていたものですから、無意識下であっても常に天に通じる心の状態になっていたんだね。
そして、矩(のり)は、宇宙の真理、宇宙法則のことです。
自我の心で思ったり考えたりすること、そして行為すべてが、宇宙の真理、宇宙の法則に自然とかなっている状態になったんだね。
孔子七十歳にして「思ったり考えたりする意識する習慣と実践行動が一つとなり、宇宙真理である生生化育進化向上に順応する私になりました・・・」 という大悟の心境だったんだろうね。
これが天風哲学でいうところの心身統一状態だね。
「論語」に表された、孔子様とその弟子達との生き様をとおして、天理に則した「天道」「地道」「人道」を天の導きを得て〈徳の道〉として表したんだね。
私はそのように解釈している。
天風に言わせれば、これが「王道」だね!
これが人生のロイヤルロードなんですよ。
これを知り、行うことが本来の「道徳」と感得している。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート10」だ。
諸君、五十で天命を知った孔子様だが、次の「六十にして耳順(したが)う。」までには、十年の歳月を費やしているね。
天風解釈では、この耳順うという意味は、顔の横についている耳ではありませんぞ。
「心の耳」のことなんだ。
「心耳-しんじ」。
つまり、心を耳にすることだね。
孔子の弟子や様々な多様な人間の意見にも素直に耳を傾けられるようになったんじゃないんだ。
自己の〈本然の自性〉、自我の本質である〈真我の扉〉が完全にオープンするのに十年の歳月がかかったんですよ。
天風さん、一体何のこと言っているんですか? 理解できませんよ!
ま~、そうでしょうな!
頭で、理屈で考えるとわかりませんぜ。
孔子様が四十までは、「いよいよ学んで、いよいよ苦しみ、いよいよ極めて、いよいよ迷う」と言ってます。
幼いころから学問して、様々な物事から知識を得てきた。
学べば学ぶほど、知れば知るほど、苦しくなる。
かえって何も知らないほうが余計なこと考えずにすんだのに!
突きつめれば、つめるほど迷い苦しくなってくるんだね。
はなから、知らなきゃ考えないね。
知らなければ、思いはしませんよ。
そうでしょう。
知らないことを考えるという人間はいやしません。
しかし、孔子様は人生かけて、命がけで、真我の霊門の扉をあきらめずに叩き続けたんだね。
「叩けよ、さらば開かれん」だね。
六十になって、真我を通じて、天の啓示なるものを心耳でよく聞き、天啓の示唆に素直に順うようになったんだね。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート9」だ。
諸君、孔子様が自身の天命をどこから知ったのか?
天風哲学にあえて照らし合わせてみると「本来の自己」「本然の自性」と呼んでいる「真の我」を通して、「天の啓示」を受けたんですよ。
何も言葉で「もしもし天ですが孔子さんですね。」「はいはい孔子です。」なんて電話で話をしたんじゃないでしょうがね?
天との回線が開通したんでしょうな。
大変な学問してるからって、心頭で考えて気づいたんじゃないですよ。
孔子様あてに、天命という名の天からの業務連絡があったんですな。
天からの業務連絡を天啓といいます。
孔子様の霊魂(スピリッツ)が第一番に受け取り、孔子様の心に伝達したんですな。
齢(よわい)五十でもうすでに天の啓示を受ける受け皿が大きく出来あがっていたものですから、天から甘露(かんろ)の法雨が彼目掛けて堰(せき)を切ったようにどんどん降り注いだんですな。
きっと、きっと、きっとね。
こうなると、理屈抜きで天の道理を知っちゃったんですよ。
「ああ~、なるほどそうなんだ!」
これって、天風哲学では自然承認(しぜんしょうにん)すると言っております。
自我小我の心と真我本心良心の心と天の意志たる心と一つながりになっちゃったんだね。
その刹那瞬間に天命という使命に気づかされたんだろうね。
ここで言っている天命はだね・・・
世間一般の通念概念で言われていることでなくして、刹那であろうと一瞬の「大我の大悟」であったんだ。
換言すれば、天意(あい)を知ったんだね。
私はそう確信する。
諸君はどう思われるかね?
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート8」だ。
諸君、いよいよ天命を知るにいたった孔子様のエピソードの原点だね。
昨日、お話をしたように、心と体は、この物理次元の人間世界の表現に不可欠の要具なんだと述べました。
諸君、わかっちまえば、そう難しいことではないんですよ。
わかっちまえば、「なぁーんだ、そんな簡単なことか、ずいぶんと、難しく考えていたが、心一つ素直になれば、実に単純なことだ。」と、自覚される時が訪れるんです。
自身の人生の体験、経験を通して、理屈抜きで、「なるほどなー、そうだなー、うん!うん!そうだ!そうだ!」って、勝手にうなずくようになっちまうんですよ。
諸君、ご存知の通り、諸君の本質である、真の自己は英語で言えば「Spiritsスピリッツ」、日本語で言えば「霊魂」ですよ。
この霊魂の意識を、霊性意識と呼んでいます。
みなさんの思ったり考えたりする心の働きである「自我の意識」と分けて、「真我の意識」とも呼んでいます。
諸君、霊魂たる真我が諸君の本来の自己なんです。
わかっている諸君は、もう常識ですね!
天風哲学では、「本然の自性」とか、「自我の本質」と呼んでおります。
肩の力を抜いて、「ああそういう考え方もあるんだ。」ぐらいに、受け入れて下されば結構ですよ。
そう、素直な心になってね!
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート7」だ。
諸君、「孔子様は、『天命を知る』は、どこから知ったのか? どうして知ることが出来たのか?」という疑問に答える前に、諸君の心や肉体が、「人間=自己」に対してどんな関係にあるかについて説明しよう。
心や肉体が人間そのもののように多くの人は認識されているが、本当のところは、ズバリ実はそうではないんですよ。
人間がこの世に活きるのに必要ないろいろな方便(ほうべん)を行うための道具という関係にあるんですよ。
哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の存在と生活とを確保存続させるに必要な不可分的生命付属物なんですな。
故に、心や肉体は、「人=自己」ではなく、ましてそれが「人=自己」本体ではないのであります。
諸君、これは人間創造真理でもあり、「本然の自性」と呼んでいる天風哲学の真骨頂であります。
そして、天風哲学の基本中の基盤、土台中の一番基礎になっている「真我の要諦」の要素の一つであります。
小難しくなってきましたので、背伸びでもして、長く、ゆったり深呼吸して、頭と体をほぐして下さいな。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート6」だ。
諸君、諸君の中にも生前の私の著書を手にとって読まれた方もおられるでしょう。
天風哲学の真骨頂は「人間は万物の霊長である。」という根幹に流れている絶対の真実である。
ここが一番大事なことであるが、特に忘れてはならないことは、万物の中でも人間は、宇宙根本の創造エネルギーの分派分量を最も多く頂戴しているということだ。
ヨガ哲学では「先天の一気」と呼んでいるんですよ。
人間以外の生命が真似(まね)することのできないほど、まことに多くの分量をいただいている。
故にこのことが、人間が自然物の中で霊長といわれる所以があるんです。
けっして人間のおごりでそう言っているんじゃないんですぞ。
天風哲学は、造物主が人間を万物の霊長として創造された、人間本来の面目とは何かを、私の生涯かけての体験経験から問うて、探究して、導き出した実践哲学なんですよ。
その目的は、万物の霊長たる本来の人間に立ちかえること。
そして、本来の人間として生きることなんですよ。
生前はこのことを真人間として真人生を生きることを天の導きを得てお伝えしていたんですよ。
「天風哲学は、本来儒教や仏教、神道などをはじめ、多様な宗教や哲学を『打って一丸』としたものであり、日々に自ら実践し、行うものであり、人生という社会生活の現場に活かしてこそ意味がある。 単なる知識だけの修得では、『論語読みの論語知らず』と同じことで意味がない。」
これは私の生前に述べた言葉なんですぞ。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風