本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート10」だ。
諸君、五十で天命を知った孔子様だが、次の「六十にして耳順(したが)う。」までには、十年の歳月を費やしているね。
天風解釈では、この耳順うという意味は、顔の横についている耳ではありませんぞ。
「心の耳」のことなんだ。
「心耳-しんじ」。
つまり、心を耳にすることだね。
孔子の弟子や様々な多様な人間の意見にも素直に耳を傾けられるようになったんじゃないんだ。
自己の〈本然の自性〉、自我の本質である〈真我の扉〉が完全にオープンするのに十年の歳月がかかったんですよ。
天風さん、一体何のこと言っているんですか? 理解できませんよ!
ま~、そうでしょうな!
頭で、理屈で考えるとわかりませんぜ。
孔子様が四十までは、「いよいよ学んで、いよいよ苦しみ、いよいよ極めて、いよいよ迷う」と言ってます。
幼いころから学問して、様々な物事から知識を得てきた。
学べば学ぶほど、知れば知るほど、苦しくなる。
かえって何も知らないほうが余計なこと考えずにすんだのに!
突きつめれば、つめるほど迷い苦しくなってくるんだね。
はなから、知らなきゃ考えないね。
知らなければ、思いはしませんよ。
そうでしょう。
知らないことを考えるという人間はいやしません。
しかし、孔子様は人生かけて、命がけで、真我の霊門の扉をあきらめずに叩き続けたんだね。
「叩けよ、さらば開かれん」だね。
六十になって、真我を通じて、天の啓示なるものを心耳でよく聞き、天啓の示唆に素直に順うようになったんだね。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
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