諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート231」だ。
昨日の引き続きであります。
心を健全に活かすには、いかなる場合にも、心に積極的な態度をしっかりと持たねばならない。そうして初めて、生命の源泉を確保したことになる。形ある肉体も、自ら、その力に導かれ、当然健全なものになるのである。
この真理を厳かに考えれば、たとえ、現在の体力が不完全であろうとも、病があろうとも、心配することも、悲観することもない。自分の心さえ、積極的に健全にさえすれば、その肉体は自然に強健なものに作りかえられる。そしてそのことが、宇宙真理であるということに気づかねばならない。
心を積極的にする要点は何かというと、勇気の煥発だ! だから、すべからく何事に対しても、またいかなるときといえども、勇気、勇気で対応しなければならない。
力の暗示誦句を唱うときでも、体のどこかに穴が空いているのじやないかと思うようなのがときどきいるが、勇気の抜けているのは力の誦句にならない。私は、勇気ひとすじな人間が大好きなのだ。女でも、男でも、勇気のない人間は、いざというときに話相手にならない。ちょっと一緒に往来を歩いていても、勇気のない人間というものは、戦々恐々と、びくびくして歩いている。
まこと、人生修養の最彼岸点は、いつも勇気の溌剌たるものがなければいけない。
勇気溌剌たるものとはどんなものか。
わかりやすくいえば、どんな場合にも、虚心平気の状態でいるのが、溌刺たる勇気の状態なのだ。勇気を常に心から落さない心がけで人生を活きると、人生何事に直面した場合でも、虚心平気の状態で、それに応接することが出来るようになるのである。つまり、勇気というものが、虚心平気という大境涯に入る経路なのである。ところが、たいていの人は、この簡単な道理に目覚めていないので、ものごとを怖れるとか、不安になるとか、神経過敏とかということが、心を消極的にする原因のように考えているが、それらは原因でなく結果なのである。尻と頭を間違えている。原因は勇気が欠けているからで、勇気が欠けているから、消極的な心や気持ちが起こってくるのである。
以前話したことがあるが、平炭坑のストライキ調停のため、私が単身で炭坑の現地に赴いた。それまで陸軍の大迫(おおさこ)将軍や、日蓮宗の田中智学らが調停に行っても鉄砲を撃ちかけられて渡ることすら出来なかった炭坑の入口の橋を、警官が止めるのも聞かず、平気で渡っていったのも、この勇気が煥発されたからこそなのである。
女房や娘を売ってまでも、炭坑に立て龍って、長い間、経営者と戦い続けている悲惨な労働者を救おうとしてやって来た自分に、弾丸なんか当ってたまるか、いや、当るはずがない。
この勇気が煥発されて虚心平気な気持ちになれたのである。だから橋に一歩足をかけた途端、パンパンと撃ちかけてきたが、平気でドンドン渡って行った。そして、橋を渡った後に気が付いたのであるが、身につけていた外套を六発の弾丸が打ち抜いていた。けれど身にはまったく、かすり傷一つ受けなかったのである。
だから、勇気さえ心から失わなければ、何事もこの世に怖るるものはないのである。
昔の諺にも、
勇気は常に勝利をもたらし
恐怖は常に敗北を招く
というのがある。
断じて行なえば、鬼神もこれを避く
陽気の発するところ 金石もまた透る
である。
だから、人間の心から勇気がなくなると哀れなものである。万物の霊長なんて名ばかりになってしまう。四六時中不当にやすらかな気持ちで人生を活きることが出来ない。
何か「事」があるとすぐに心の調和を失い、心の平和がかき乱される。
だから、理屈は抜きにして“たとえ、どんなことがあっても、断然、勇気を失うことなかれ″これがモットーなのである。
そうなるには、観念要素の更改を真剣に実行するとともに、普段から、出来るだけ勇気凛々たる人間と交際するように心がけることである。
前にもいったとおり、この世の中や人生には、滅多矢鱈(やたら)に恐ろしいということはありはしない。怖ろしいと思っているのは、自分の心なのである。
今まで活きて来た過去を考えてみなさい。のべつそんなに怖ろしいことがあったか、なかったか。
生まれつき神経過敏な人間はいないといっただろう。生まれたときには白紙のごとし。
それが、いまのような状態になったのはなぜかというと、自分自身で生まれたときに持ってきた勇気というものを影を薄くしてしまっているからだ。なくなっているのではない。その上に消極的な弱い心が蓋(ふた)をしているからなのである。
日本人であることを忘れるな!
世界で二つとない富士山をもっている日本国民、燎乱三千年の歴史の中に燦(さん)として輝いていた、日本人の勇気がいかに豊富であったか。それが、太平洋戦争で、滅茶滅茶に醜くなり、たとえ一時的であろうとも勝を向うへやった。これは、当時の人間が、大言壮語しても、真の勇気が欠けていたからだ。
今夜から寝ぎわの観念要素の更改には、毎日毎日こうして、魂に手ごたえを与えている真理の瞑想によって開けた悟りのうち、どれでも良いから、寝がけの観念要素の更改の場合の魂を綺麗に研ぎ上げる手段に使いなさい。それには、誦句集のどの章でもいいから、開けて読みなさい!
読むだけでも非常に寝ぎわのときの気持ちの掃除が出来る。ただ、眠いからといって、フーッと寝るよりは、この誦句集のどのページでもいいから開いて、一章だけでいいから誦えなさい! 二つも三つも重ねていう必要はない。そして、そのままの気持ちになる。信念のところを唱えたら信念の気持ち。勇気のところを唱えたら勇気の気持ちになって、「夢むらさきと豊けくけむれ」ばいいのだ。
そして、本当にけなげな勇気ある自分を作りなさい!
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート230」だ。
昨日の引き続きであります。
それから、中には、人に忠告したり勧告したりするとき、その忠告や勧告に応じてくれないと、やたらと胸くそを悪くする人かある。これも滑稽千万である。第一、無理な注文である。あなたのその言葉に応じるか応じないかは、向うの勝手だ。人の意思は自由だから、こっちで干渉する権利はない。
もっと滑稽な人間になると、人に親切にしてやって、相手がその親切に感じないと、盛んに怒っている者がいる。
「何よ! あの人、恩知らず!」なんて……。
それからまた、愚にもつかないこういう人間もいる。
自分の仕事などが、うまく思うとおりにいかないと、とっても、がっかりして、へこたれて、意気消沈してしまう。箸一つ切れなかったり、竹一つ切れなかったりすると、一日中意気消沈しているような間抜けもいる。
ただ、往生のときを早めるだけじやないか。この世の精算を早めるだけじやないか。他に、何の効果も来やしない。人生は主観だ! 心一つのおきどころだ!
いったいなぜ人間はこういうようなんだろうかということを考えてみよう。
たとえば、病のときなんか、「なにくそ! こんな病に負けてたまるか」と考えればいいんだけれど、考えられないのはなぜか、ということを考えてみよう。
自分の仕事だからこそ、「これが心配せずにいられるか。これが悲観せずにいられるか……」と。しかし原因は何と、極めて簡単なところにあるのだ。どういうところにあるかというと、結論的にずばり言えば “勇気” がないからなのだ。否! 勇気が欠けているからだ。勇気はあるのに、出し方がわからないから、人生を活きる際に、非常に勇気が足りないものが出てくるのだ。
勇気が落ちたら、いくら積極的にしようと思っても、“いざ、さらば” というときに積極的にならない。普段の習慣が大事なのである。勇気というものは、人生を統一する一切の根本基礎なのだ。
繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考えると、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。
ちょうど、扇風機は、扇風機のモーターの力で回っているのではない、扇風機を回している力の元は、エレクトロンとプロトンという “気” である。
よく考えてみれば、すぐ解ることだけれども、頑健な肉体を持たず、見るからに弱々しい体であっても、相当に長生きをし、世の中のために仕事をなしている人が、昔から随分といる。イマヌエル・カントや、ヘレン・ケラーや平田篤胤(あつたね)、貝原益軒というような人は、その代表的な人達だ。もちろん、肉体が強いに越したことはないけれども、いかに肉体が発達しても、それはただ単に、生命の物質的方面のみの発達だ。心の方面が積極でないかぎり、理想通りの最高の生命の発達は出来ない。
というのは、いまいったとおり、人間の生命の本体は、精神生命の根元である無形の霊という “気” であるからである。
今の話のとおり、いかに立派な扇風機を拵(こしら)えてみたところで、モーターの中のコイルの捲き方が不完全であったら、充分にこの気を受け入れることが出来ない。形だけは立派でも少しも回らない。だから、完全に、生命を活かす計画の成就は、生命の本体たる霊という気を、完全なる姿で、この生命を確保しなければいけない。
その第一の先決問題は何か!
それは、心を健全に活かすことである。
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート229」だ。
昨日の引き続きであります。
心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど何を考えるときでも、やたらと取越苦労をする。取越苦労をすると、物事をやたらと消極的におおぎょうに考える。あれがああなってこうなって、こうなってああなって、ああペシャンコだ、というようにね。
人間は、この良くない癖と、伝統的に、慣習的に付き合っているといっても過言ではない。重大に考えなければならないことは、心配したり悲観したりする習慣を、習慣とも気づかず、悪い癖とも反省しないで、人間共通の通有性というように、間違えてますますやっていると、人生の光明をどんどん闇にする哀れな気分だけが、人生を支配するようになってしまう。
ただ、それだけでも下らない惨めな人生なのに、そういう心配や悲観をしていると、その心配や悲観したことが、なんと現実の事実となって、人生を惨めな状態にしてしまうのである。なぜかというと、悲観したり心配したりすると、その心配や悲観が、人生に苦い形で現実の姿を現わしてくるように、宇宙真理が出来ているからである。
これは絶対の真理である。これは自然の法則なのである。
だからかりそめにも、生まれ甲斐があり、生き甲斐のある人生を活きようと欲するならば、何よりも一番戒めなければならない大切なことは、心配や悲観、これは断然、禁物だと思わねばならないのだ。
もう、何回もいっているとおり、この大宇宙の中には精気というものがあって、その精気の中には、積極の気と消極の気とが入り混って、遍満している。その気が人間の心の中の気分と常に同化的に働いている。積極的なことを考えればプラス(正)の気が入ってくるし、消極的の気分になればマイナス(負)の気が入ってくる。
我々は、千万の理論よりも、一つの事実を厳かに考えねばならない。真理というものは、事情や情実で左右はされない。まして病や運命に対して、もっとより良い結果を望むのならばなおさら、一段と心配や悲観というものは絶対に無意味だと考えねばならない。否、無意味というより破壊に終わるのだ。
もう何遍もいっているとおり、宇宙の根本主体である、神仏と称せられるものの心の中には、“真” “善” “美” 以外に心配や悲観というような心持ちは夢にもない。その神の心と通じている心を持つあなたがたが、この自覚を明瞭にしなければならない。そのことが明瞭になれば、下らないものを心配したり、悲観したりする必要は、さらになくなってしまうものだ。
人間というものは、人間である以上、人間としての面目を発揮しないと、人間としての面汚しを自分でしているようなものである。人間は人間らしくあるときにのみ、人間の恵まれた幸福というものが与えられる。だから、もっと神の心や仏の力に近寄りたかったら、心配や悲観を断然しないようにしなくてはならない。
よく考えてみよう。人生には特に病が生じたり、運命が悪くなったときは、ひとしおその生命の力をより強くする必要があるときなのである。何でもないときは、さもあらばあれ、病や運命が悪くなったときには、そのときこそ、生命を守る戦いを開始しなければならないのだ。そのときに、戦いに勝つものは、力なのだ。しかも、その力を強くするには何を措いても、第一に心を積極的にしなければいけないのだ。それを、悲観したり心配したりして、心を消極的にして、なおかつ、より価値高く活きようとする考え方は、火種なしに炭から火を熾(おこ)そうとするのと同じである。
もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで、自分の心が影響され、あるいは同情して、自分まで心配して不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。
“同情” という気分は尊いが、自分というものを、これと同様の消極的な気分にして、自分の生命まで腐らしてしまわねばならぬ、いささかの義務も責任もないはずだ。消極的な他人の気分にまで、同化的環境を造る必要はない。
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート228」だ。
諸君、子路(しろ)少年の勇気は、やはり心の態度が積極的であったのは間違いないね!
何事に遭遇しても恐れたりしなかった。
生前に勇気について述べたことがある。
「運命を拓く―天風瞑想録」の「第十一章 勇気と不幸福撃退」というタイトルテーマのところです。
大切なことなので全文を掲載することにする。
諸君等の参考にしてほしい。
今日は人生を完全に活きるのに必要な各種の要項の中で、特に必要なことを悟ることにしよう。
それは何かというと、第一に必要なことは、何事にもやたらに悲観したり心配したりして、すべてのことを消極的に思ったり考えたりすることを止めることである。
今まで、常日頃、あなたがたが当り前のように思ったり考えていた心配や悲観、それが決して当り前ではないということを悟ることにしよう。
あなたがたが、病なり運命なりに冒されると、やにわに、それを心配したり悲観したりする。そして、そうすることが当り前の人間のように思っている。常識のある人間なら、そうあるのが当然だと思っている。そして、その理由というのは、実に第二義的なことを麗々しく並べたてる。〝自分も含め周囲のすべてがそうであるから”というのである。ところが、真理の上から正しく論断するなら、大変な間違いなのである。間違いを行なっている人が多いからといって、その数で是非善悪を決定するということは、実に無鉄砲な乱暴な決定ではないだろうか。
考えてみよう、人聞か病や不運に冒されたとき、それを心配したり悲観したりするのが、真理だとしたら、人間なんて値打ちが少しもなく、人間ほど惨めなものはないと思わないだろうか。
心配したり悲観したりするとき、人生が明るく感じられるか、あるいは暗く感じられるか、すぐ解ることだ。何ともいえぬ楽しみで心配や悲観の気持ち、心持ちを、もっている人があったら、そんな人は、人間が万物の霊長としてこの世に生まれてきた理由を考えないからである。万物の霊長として生まれてきた理由を考えるなら、心配したり悲観したりすることが寸法違いだということをすぐ悟れるわけである。
考えてみよう。人間はこの世に悩むために来たのではないだろう。心配するために来たんではなかろう。悲観するために来たのではないだろう。つまり、一生を暗く生きるために来たのでは断じてない。まこと尊きかな、人間は進化と向上という偉大な尊厳な宇宙法則を現実化するために、この世に生まれてきたのである。
このような見地に立脚して、人間というものを厳かに考えるなら、まったく、悲観や心配という心持ちが人間の共通性だという決定は、最初からまったく、とんでもない誤りから出発した結論ではないだろうか。しかるに、この間違いを正しく悟ることができず、病だから心配するのが当り前で、不運だから悲観するのが当然だというように、少しも間違いのない真理のように考えるのなら、そういう人は、こういうことを考えてごらん。いや、そうしたことが、五十歩百歩譲って、正しい真理であるとしたならば、病に罹(かか)って心配した者が早く治り、不運に遭って悲観した者がたちまち幸運に運命を転換しているはずである。ところが事実は全然それと反対ではないか。
病のとき、心配すればするほど回復は遅い。私は死亡広告を新聞で見るたびに、この人は、本当の病で死んだのだろうかと考えてしまう。否、寿命で死んだのなら、さもあらばあれ、たいていは自殺じゃないのだろうか。自殺といっても、なにも青酸カリやブロバリンを大量に飲んで死ぬのばかりが自殺ではない。病に罹ったときに神経を過敏にして、ああでもないこうでもないと、心配を重ねて、活きる力を自分で衰えさせて死んだのも自殺なのだ。私はそういう者が多いのではないか、といつも思う。
また不運のとき、悲観すればするほど、よりいっそうよくない事実が現実にくる、という、侵すべからざる事実があるのを何とするか。いかに屁理屈を付けてみても、この厳然たる事実を曲げたり、否定したりすることは出来ないだろう。
しかるに、この真理に正しく目覚めないで、やたらと何でも、人生のことを心配したり悲観したりするのを人類の通有性と見るのは、随分飛び離れた、“あわてもの”といわねばならない。そういうのも結局、生命に関する宇宙の法則や、心の持つ生命への偉大な働きかけ、というものに無自覚であるからだ。そして、その無自覚から、そういう“癖”を知らず知らずの間に心につけてしまっているからだ。習慣は第二の天性というが、まことに怖るべきことではある。
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート227」だ。
昨日の引き続きであります。
子路(しろ) 曰く、「おい、子貢(しこう)、俺はモデルじゃないんだ。 写真を撮られるばかりで自分で見なければ面白くも何ともねえじゃないか。」
神北(かんぺき)曰く、「それより、先輩が手にとったら、いつも何か写っているんですよね。今回は何が写るか、そっちの方が興味ありますよ!」
子貢曰く、「そうですよ! 話をずいぶん引っぱった割に、結局これからここで記念撮影して、さて何が写っているかその方が楽しみですよ!」
顔回(がんかい)曰く、「心霊写真になってしまうきっかけは、やはり、さゆりさん達に会ってからのことですよね!」
子路曰く、「多分それからだと思う。」
顔回曰く、「それなら原因がわかるじゃないですか。 勇気ある少年を誇りに思って、はたまた感謝しつつ同じ仲間として認めての記念撮影に入ってきたのでしょう。 さゆりさんや親父グモだけじゃなく他の心霊や精霊も先輩のことが好きなんですよ! 好かれているんですから写真嫌いになることないじゃないですか?」
神北曰く、「後輩の分際で話の腰を折るようで申し訳ないですが、孔子先生の講義を受けたいので皆さんさっさと記念撮影して帰りませんか?」
子貢曰く、「神北、ちょっと待ってくれ! 一つはっきりさせなきゃならないことがある!」
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート226」だ。
昨日の引き続きであります。
子路(しろ) 曰く、『おじさん、さゆりは学校と子供たちを守ろうとしているんですよ! その手伝いが出来るんだから、それは誇りに思ったらいいですよ! 用務員の誇りですよ!』
案内人曰く、『用務員の誇り!! 子供なのにいいこと言うね! ますます気に入ったよ!』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
子路曰く、「どうやら用務員のおじさんと親父グモはスチーブンソン作の小説の主人公であるジキル博士とハイド氏のようにセットであることは間違いない。 それから一緒に記念撮影をした。 おじさんは俺の隣に立っていた。 後日、夏休みが終わって、学校で先生から写真を渡されたんだ。 その写真を見たとき隣のおじさんが消えていて親父グモが代わりに写っていたんだ。 おまけに親父グモの頭の上にさゆりが写っていた。 友達の回りにも、この小学校の子供たちが重なり合うように写っていた。 俺が写真嫌いになったのは、俺の写真にだけ写っているということだ。 同じ写真が配られたのに、俺に渡された写真だけに奇怪なものが写っている。 つまり俺が写っている写真を俺が手に持って見ると心霊写真になっちまうんだ。」
子貢(しこう)曰く、「話をずいぶん引っ張った割には落ちがつまらないですね! それは写真を撮られるのが実は嫌いじゃない先輩が写真を手に持ってみることで問題が生じているわけですから、先輩は手にとって写真を見なければいいんですよ!」
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート225」だ。
昨日の引き続きであります。
神北(かんぺき)曰く、「そう言えば、アメリカ映画『スパイダーマン』にも主人公の青年がスーパーグモに刺されたため、熱に浮かされて、目が覚めると、超能力クモ人間になっていた。 と言う映画でしたが、顔も体も人間でしたね! 顔だけ親父で、たいした力も無しでは気の毒というものです!」
顔回(がんかい)曰く、「スパイダーマンは、スーパーヒーローです。 親父グモとは一緒に比較しないで下さい! 話の先をお願いします。」
子路(しろ)曰く、「案内人のおじさんは、懐中電灯をぶつけられた腹いせなのか、俺にへばりついて離れないんだ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
案内人曰く、『子路君、その時の夢は、ここには、さゆりという学校童(わらし)がいて、この学校を陰で守っているんだ。 そのさゆりが、“お兄さん、このまま放っておけばクモの毒が全身に回って24時間以内に死んでしまうよ! まだ死にたくないでしょう? 必ず助けるから、この学校を守るためのお手伝いをしなさい!” と言われた夢なんだ。』
子路曰く、『それで、おじさんは夢の中でどうしたんだ。』
案内人曰く、『子路君、その当時は私も若くてハンサムなお兄さんでしたよ!』
子路曰く、『そりゃどうも。 お兄さん、失礼しました。』
案内人曰く、『俺はこの学校が好きだから用務員になった。 だから、この学校を守るためなら “はい、喜んで!” と即答した。 その返事をした途端、夢から覚めて、目を覚ましたらすっかり熱も下がり、俺は死なずに生きていることを実感したんだよ! それから、この学校の用務員室に泊まるたびに、夢を見るんだ。 さゆりが “学校のトイレが汚い! もっときれいに掃除させろ!”、“ 村の○○ちゃんがひどい風邪だ、山の中の薬草をとって持って行きなさい!” とか、ことあるにつけ命令するんですよ! “明日はお休みだから出来ない” と言うと、“約束守らないとクモになっちゃうよ!” と脅すんですよ!』
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風