2010年9月9日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート229

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート229」だ。

昨日の引き続きであります。

 心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど何を考えるときでも、やたらと取越苦労をする。取越苦労をすると、物事をやたらと消極的におおぎょうに考える。あれがああなってこうなって、こうなってああなって、ああペシャンコだ、というようにね。
 人間は、この良くない癖と、伝統的に、慣習的に付き合っているといっても過言ではない。重大に考えなければならないことは、心配したり悲観したりする習慣を、習慣とも気づかず、悪い癖とも反省しないで、人間共通の通有性というように、間違えてますますやっていると、人生の光明をどんどん闇にする哀れな気分だけが、人生を支配するようになってしまう。
 ただ、それだけでも下らない惨めな人生なのに、そういう心配や悲観をしていると、その心配や悲観したことが、なんと現実の事実となって、人生を惨めな状態にしてしまうのである。なぜかというと、悲観したり心配したりすると、その心配や悲観が、人生に苦い形で現実の姿を現わしてくるように、宇宙真理が出来ているからである。
 これは絶対の真理である。これは自然の法則なのである。
 だからかりそめにも、生まれ甲斐があり、生き甲斐のある人生を活きようと欲するならば、何よりも一番戒めなければならない大切なことは、心配や悲観、これは断然、禁物だと思わねばならないのだ。
 もう、何回もいっているとおり、この大宇宙の中には精気というものがあって、その精気の中には、積極の気と消極の気とが入り混って、遍満している。その気が人間の心の中の気分と常に同化的に働いている。積極的なことを考えればプラス(正)の気が入ってくるし、消極的の気分になればマイナス(負)の気が入ってくる。
 我々は、千万の理論よりも、一つの事実を厳かに考えねばならない。真理というものは、事情や情実で左右はされない。まして病や運命に対して、もっとより良い結果を望むのならばなおさら、一段と心配や悲観というものは絶対に無意味だと考えねばならない。否、無意味というより破壊に終わるのだ。
 もう何遍もいっているとおり、宇宙の根本主体である、神仏と称せられるものの心の中には、“真” “善” “美” 以外に心配や悲観というような心持ちは夢にもない。その神の心と通じている心を持つあなたがたが、この自覚を明瞭にしなければならない。そのことが明瞭になれば、下らないものを心配したり、悲観したりする必要は、さらになくなってしまうものだ。
 人間というものは、人間である以上、人間としての面目を発揮しないと、人間としての面汚しを自分でしているようなものである。人間は人間らしくあるときにのみ、人間の恵まれた幸福というものが与えられる。だから、もっと神の心や仏の力に近寄りたかったら、心配や悲観を断然しないようにしなくてはならない。
 よく考えてみよう。人生には特に病が生じたり、運命が悪くなったときは、ひとしおその生命の力をより強くする必要があるときなのである。何でもないときは、さもあらばあれ、病や運命が悪くなったときには、そのときこそ、生命を守る戦いを開始しなければならないのだ。そのときに、戦いに勝つものは、力なのだ。しかも、その力を強くするには何を措いても、第一に心を積極的にしなければいけないのだ。それを、悲観したり心配したりして、心を消極的にして、なおかつ、より価値高く活きようとする考え方は、火種なしに炭から火を熾(おこ)そうとするのと同じである。
 もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで、自分の心が影響され、あるいは同情して、自分まで心配して不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。
 “同情” という気分は尊いが、自分というものを、これと同様の消極的な気分にして、自分の生命まで腐らしてしまわねばならぬ、いささかの義務も責任もないはずだ。消極的な他人の気分にまで、同化的環境を造る必要はない。


この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

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