本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート228」だ。
諸君、子路(しろ)少年の勇気は、やはり心の態度が積極的であったのは間違いないね!
何事に遭遇しても恐れたりしなかった。
生前に勇気について述べたことがある。
「運命を拓く―天風瞑想録」の「第十一章 勇気と不幸福撃退」というタイトルテーマのところです。
大切なことなので全文を掲載することにする。
諸君等の参考にしてほしい。
今日は人生を完全に活きるのに必要な各種の要項の中で、特に必要なことを悟ることにしよう。
それは何かというと、第一に必要なことは、何事にもやたらに悲観したり心配したりして、すべてのことを消極的に思ったり考えたりすることを止めることである。
今まで、常日頃、あなたがたが当り前のように思ったり考えていた心配や悲観、それが決して当り前ではないということを悟ることにしよう。
あなたがたが、病なり運命なりに冒されると、やにわに、それを心配したり悲観したりする。そして、そうすることが当り前の人間のように思っている。常識のある人間なら、そうあるのが当然だと思っている。そして、その理由というのは、実に第二義的なことを麗々しく並べたてる。〝自分も含め周囲のすべてがそうであるから”というのである。ところが、真理の上から正しく論断するなら、大変な間違いなのである。間違いを行なっている人が多いからといって、その数で是非善悪を決定するということは、実に無鉄砲な乱暴な決定ではないだろうか。
考えてみよう、人聞か病や不運に冒されたとき、それを心配したり悲観したりするのが、真理だとしたら、人間なんて値打ちが少しもなく、人間ほど惨めなものはないと思わないだろうか。
心配したり悲観したりするとき、人生が明るく感じられるか、あるいは暗く感じられるか、すぐ解ることだ。何ともいえぬ楽しみで心配や悲観の気持ち、心持ちを、もっている人があったら、そんな人は、人間が万物の霊長としてこの世に生まれてきた理由を考えないからである。万物の霊長として生まれてきた理由を考えるなら、心配したり悲観したりすることが寸法違いだということをすぐ悟れるわけである。
考えてみよう。人間はこの世に悩むために来たのではないだろう。心配するために来たんではなかろう。悲観するために来たのではないだろう。つまり、一生を暗く生きるために来たのでは断じてない。まこと尊きかな、人間は進化と向上という偉大な尊厳な宇宙法則を現実化するために、この世に生まれてきたのである。
このような見地に立脚して、人間というものを厳かに考えるなら、まったく、悲観や心配という心持ちが人間の共通性だという決定は、最初からまったく、とんでもない誤りから出発した結論ではないだろうか。しかるに、この間違いを正しく悟ることができず、病だから心配するのが当り前で、不運だから悲観するのが当然だというように、少しも間違いのない真理のように考えるのなら、そういう人は、こういうことを考えてごらん。いや、そうしたことが、五十歩百歩譲って、正しい真理であるとしたならば、病に罹(かか)って心配した者が早く治り、不運に遭って悲観した者がたちまち幸運に運命を転換しているはずである。ところが事実は全然それと反対ではないか。
病のとき、心配すればするほど回復は遅い。私は死亡広告を新聞で見るたびに、この人は、本当の病で死んだのだろうかと考えてしまう。否、寿命で死んだのなら、さもあらばあれ、たいていは自殺じゃないのだろうか。自殺といっても、なにも青酸カリやブロバリンを大量に飲んで死ぬのばかりが自殺ではない。病に罹ったときに神経を過敏にして、ああでもないこうでもないと、心配を重ねて、活きる力を自分で衰えさせて死んだのも自殺なのだ。私はそういう者が多いのではないか、といつも思う。
また不運のとき、悲観すればするほど、よりいっそうよくない事実が現実にくる、という、侵すべからざる事実があるのを何とするか。いかに屁理屈を付けてみても、この厳然たる事実を曲げたり、否定したりすることは出来ないだろう。
しかるに、この真理に正しく目覚めないで、やたらと何でも、人生のことを心配したり悲観したりするのを人類の通有性と見るのは、随分飛び離れた、“あわてもの”といわねばならない。そういうのも結局、生命に関する宇宙の法則や、心の持つ生命への偉大な働きかけ、というものに無自覚であるからだ。そして、その無自覚から、そういう“癖”を知らず知らずの間に心につけてしまっているからだ。習慣は第二の天性というが、まことに怖るべきことではある。
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
0 件のコメント:
コメントを投稿