2010年10月2日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート252

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート252』だ。

諸君、「論語創作ものがたり」のひきつづきであります。  

子曰く、「子貢(しこう)よ、私は四十まではいよいよ学んで、いよいよ苦しみ、いよいよ極めて、いよいよ迷った。 それまでの私は、徒(いたずら)に肉身または心を人の本体なりと思い惑っていた。 人の本体は肉身にあらず、また心にもあらず。 人の本体は絶対にして不変または不朽不滅なる霊魂なんだ。 身といい、心と称するものは、真我の命が現象の世界に活きてゆくための一切方便を行わんがための命への要具なんだと気付いた。 それに気がついてより迷わなくなった。 およそ人間の心の奥には、幽玄(ゆうげん)微妙はたまたおしはかることが出来ない一大心界がある。 しかもこの心界は、宇宙創造の力と通じ、常に自己を援(たす)け、自己を危害を加えようとするものからかばい守ってくれる務めを行っているんだ。 子貢よ、しかし人々の多くはこの崇高なる心界が、わが命の中に在るのだが、それに気付かず、徒(いたず)らに心の一部に存在する低劣なる心意にのみあたら貴重なる人生を委(ゆだ)ぬるがために、心ならずも価値なき苦しみと悶(もだ)えとを招くんだよ。 心といい肉身というも、それは所詮(しょせん)はわが本体たる霊魂の要具に過ぎない、徒に益なき煩悩(ぼんのう)に執着して、低劣なる心を夢にも躍らしてはならない。 子貢よ、私は、私の裡(うち)なる魂に問い続けた。 また真理・道理にかなう人の道を訪ね続けた。 日々常に心鏡止水(しんきょうしすい)わが本性の固有する霊性開顕(れいせいかいけん)に努力精進した。 倦(う)まず弛(たゆ)まず私の裡の霊門の扉を叩き続けた。 叩けよ、さらば開かれん! 五十を過ぎたころ、堅く閉ざされていた霊門の扉が、裡より静かに開かれてきたんだ。」

この続きは明日また・・・。 
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風

2010年10月1日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート251

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート251』だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。  

『それから、心性意識という意識は、常に発達的だということを忘れちゃ駄目よ。これを忘れちまうと、きょう自分の理性で考えたことが永久に正しいように思い違いしちまうんです。よく議論して平気でこんなこと言ってる人があるんだ。
 「おまえ、そんなこと言うけどな、物の道理を考えてみろ、物の道理を。俺はどうしても、おまえの言うことは違うと思うんだ。縦から考えても、横から考えても、俺の言ってるのが本当だと思うんだ」
 といってる言葉が永久に本当と思ったら違うよ。理性は発達するんだ。きょういいと思っても、あした悪いことになることがあるかもしれない。
 考えてごらん。その昔、人の命をとることはけっして悪いことじゃなかった。元亀(げんき)・天正(てんしょう)より以前の時代は、今のように完全な法治国家じゃなかった。自分を守るものは自分だもの。だから、せっぱつまった場合に人をたたっ斬(き)ったって、けっして罪になりゃしないもの。とくに武士と称する一階級のものは、武士以外の人間だったら人間扱いしないからね。町人なんていうのは無礼打ちでかまわないということになってた。
 もう一段前になると、台湾の生蕃(せいばん)と同じように、自分の殺した人間の数の多いのを自慢にするというような状態だった。それが、その時分の人間の生命を守る一つの手段であると同時に、人生の誇りだった。
 ところが段々だんだん時代が進化するにつれて、人を殺すことは非常な罪悪だということになってるだろう。
 ただし、人を殺せば罪悪だと言いながら、今でも戦争ではドンドン人を殺してるわね。これもまあ、二十年、三十年たったら人を殺さないで、戦争は議論するだけでおしまいにする時代がくるでしょう。そうなりゃあ、しめたもんだけどもね。
 またさらに、二千年のその昔、支那の孔子が生きてる時分には、男、女が七歳以上は一緒にいちゃいけないということになってたんだ―「男女七歳にして席を同じゅうせず」。つまり、その時分の支那人は七歳で色気がでたらしいんだな。今の人間みたいに、生まれるとすぐ色気があるなんてことはなかったらしい。今の人間をもしも孔子に見せたら大変だと思うよ。こらまあ、「これ、人間どもか! あれあれ、あそこに男と女、男と女」ということになるだろう。今じゃあ男と女とこうやって一緒に並んで話を聞いてて、何も罪だと思わないわね。
 昭和二十年まで日本の女は、亭主をもってほかの男と情を通じると姦通罪って罪があった。ありましたな。けど、今は姦通罪がないんだから、いやだったら別れなさい、何も辛抱して一緒にいる必要はありません、というのが法律だもの。段々だんだん変わってきちゃうんだもの。
 今より五千年もたつと、一年ごとに隣のかかあと交代しようなんてことになりやしないかと思うけど、まあとにかく、いろんな時代がくるよ。
 だから、理性というものは、たったいま考えて、これが完全に正当だと思っても、あしたは正当でなくなるかもしれないことを考えなきゃいけない。これは非常に重要な自覚なんだぜ。ところが、心性意識が発達的なものであるということを知らずに生きてる人が多い。これは本当に真剣に考えなきゃいけないよ。いわんやまして、心性意識が非常に発達的なものであるということがわかればだ、霊性意識から霊感を引きだす非常に大きなこれは手がかりになるんだもん。心性意識の働き方一つで霊感がでてくるんだぜ。だから、心性意識がどういうものだということを正しくわからなきゃ、何にもならないんだ。
 理性というものは、心性意識の発達にともなって、やっぱり相対比例で発達してるってことを忘れちゃ駄目よ。だから、軽率に、俺はこういうふうに考えて、これがどこまでもいいと思うんだ、というふうに言い張ることは、よほど考えなきゃいけない。
 理性本位で生きちゃいけないんですよ。だいいち、理性本位で生きるとね、生きるその人間ひとりが非常な苦労をするんですよ。それがわからないんだ、多くの人には。私なんかが、もうそら、形容ができない苦労をしたのは、自分の理屈で自分が苦労したからだ。
 もちろん、理性を排斥してんじゃないんだよ。発達した理性が進化向上を現実化していくんだから、そして文化というような恩沢(おんたく)を受けるような境涯もできてんだから。理性というものは尊重しなきゃいけないけれども、尊重しろということと、それ一点ばりで生きろということとは違うんだもん。わかる? 尊いから尊重はしなさい。けど、それ一点ばりで生きろと言うんじゃないもの。
 人生はねえ、何をいったい本位として生きなきゃいけないかと言うと、霊性を本位として生きなきゃいけない。霊性は発達性のものじゃないから、けっして間違った考え方はだしませんよ。理性のほうは知識とともに発達していくから、その知識が増えりゃ増えるほど、きのう考えたことがきょういけなくなり、きょう考えたことがあした間違ってるってことがわかるようになってくる。』

諸君、「霊感は人間の命の本体である霊魂という気体の中にあるんだ!」ということを多少なりとも理解されたと思う。
では、明日は「論語創作ものがたり」に話を戻すことにしよう。

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月30日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート250

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート250』だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。  

『第一の肉性意識なるものは、人間ばかりじゃないんだぜ。肉体のあるものには、鳥、獣から、昆虫、爬虫、もっと厳格に言ったら、顕微鏡で見なきゃわからないアミ―バのような微細なものにもあるんだ。
 が、第二の心性意識と第三の霊性意識とは人間だけしかないんだ。万物の霊長たる我れら人間だけに付与された心で、ほかのものにはないの。うちの犬や猫は人間よりも利ロですよというようなことをよく言う人があるわね。そいつはまあ、かわいいペットだから、形容してそう言うんだろうけども、いくら利口でもだよ、犬、猫にはこの第二の心性意識も第三の霊性意識もむろんない。
 だから、庭で飼われている犬が、座敷でかわいがられてる猫を見てハンストをおこしたなんていうのはないでしょう。理性心意識がないもん。
 人間になると、もうすぐ不平を言うわね。同じ兄弟でも、弟がかわいがられるとか、兄貴だけがかわいがられるとか、妹だけがかわいがられて、姉が粗略にされてるなんて、すぐ不平おこすだろう。これは理性心意識があるからなんだ。
 人間以外の動物は肉性意識のみで生きてるんだから、自己というものをただ単に肉体だけのものとしか考えていないのであります。ほかのこと考えられないんだもん。いかなる事柄に直面しても、その事柄に関する事情だとか理由とかというような複雑なことはぜんぜん考えられないんです。考えようとしても、考える心がないんだから、考えられないわな。心性意識が働かなかったら、考えられないんですよ。
 たとえば、ここに一匹の犬が、吹きすさむ嵐の夜、木にゆわかれてつながれたとするんだ。するとその犬は必ずや、キャンキャン吠えたり、暴れたりしますよ。けれども、吠えたり暴れたりするのは、その場から何とかして逃れて、現在の自分の肉体の感じてる不愉快から、もっと安楽なところに行きたいと思うだけで、吠えたり騒いだりしてるだけたんだ。肉性意識がそういうことをさせてるだけなんだ。つまり、肉体に感じる不愉快な感じや、または苦痛の感覚だけを意識して、それから逃れたいだけなんだ。それ以上に階級の高い心性意識などはもともとないんだから、その心にでようはずがないもん。
 だから、ギャンギャン吠えながらも、こんな雨風の激しい嵐の晩に、一体どういう理由で俺はここにつながれたのかなあ、なんてことは言いませんよ。考えられないもん。
 ところが、人間だったらどうなるんだよ。あんた方をいきなり座敷から引きずりだして、嵐の晩に、高手小手にいましめて、庭の木にゆわえつけたとしたら、あなた方はねえ、どんな偉い人にやられたからって、礼は言わないだろう。そうらもう理屈を言いますよ。何で私、ゆわかれてここにいなきゃなんねえんだ。病になったらどうするんだ、一体全体。あれからこれへといろんなことを言うでしょうが。そらもう犬、猫がゆわかれた場合とは格段の相違がでてくるのは、けっきょく要するに、犬や猫は肉性意識が命の全体であるのに比較して、人間のほうはそれより階級の高い心性意識や霊性意識があるがためなんだ。
 動物にだってやっぱり愉快な感覚や不愉快な感覚はありますよ。犬なんか愉快な感覚になって、尾をふってるじゃないか。また、痛い感覚や辛い感覚もあります。それから、物の味わいのうまいとか、まずいとかもありますよ、人間同様。しかし、彼らはただ単に肉体感覚だけで知覚したものを意識してるだけなんだからね。推理的に考える作用は心にないんだから、そこが人間と動物の違うところなんだ。』


この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月29日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート249

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート249』だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。  

『「一生かかって山の中で、こうして難行苦行しなければ掘りだせないのですか」と言ったらね、
 「うーん、掘りだす方法を知ってしまえば、わけないんだ。けれども、そのわけない方法をみつけることがなかなかできないから、こうやって一生懸命に難行苦行してるんだ」
 この言葉はやがて、きょうの話を聞くと、ああ、そうだなあ、ということがすぐわかる。
私もその初め、何か非常にこれは難しいものであるかのごとくに考えちゃったよ、知らないから。
 けど、ようく考えてみると、人間が人間になるんだから、難しいはずはありませんわね。 人間が猿になるとか、改めて馬になる、こいつは難しいよ。できっこないもん。生まれたときは、諸君はみんな正真正銘の人間だったんだぜ。猿の子でも豚の子でもなかったんだ。
 ただ、物心ついてから、もちろん知らずにやっちゃったことだけれども、にせものになっちゃったのよ。にせものになっちまうと、自分の心の奥底に生まれながら与えられた自覚正念、霊感というものをぜんぜん気がつかないんだから、どうしてもあるとは思いやしませんよ。あると思わないんだから、一生使うことなしに終わっちまうんだ。
 そして、やれ健康がどうの、運命がどうのと、ただもう、ああもなりたい、こうもなりたいという欲望は炎と燃やしていても、これもいつも口癖に言ってるが、日向で自分の影法師をとっつかまえようと思って、駆けりや駆けだすほど、その影法師も逃げだしてしまうような状態の人生を繰り返し繰り返し生きて、そしてどうにもならないで、五十か六十歳でキューツと死んじまう。つまんない人生ですわね、これ。
 支那の昔のことわざに、「悟れば一瞬にして喜びきたり、迷いは永劫に不幸きたる」というのがあるが、全くそのとおりです。
 だから、耳で聞くと同時に、これを本当に自分のものにしなきゃ駄目ですよ。ただおもしろおかしく聞いてるだけじゃあ、何のくその役にもたたないんだから。

 それでは、第一番に知っておきたいことは何だというと、「意識」ということであります。
 意識というのは、わかりやすく言うと、心の活動する状態に対する形容詞なんだ。わかりました? だから、心が活動しなかったら意識はでてこない。心が活動すると同時にでてきた現象を意識という。
 思ったり、考えたりしたら、もうそれが意識なんだよ。心の活動は思考によって現実化するんだから。心は思ったり、考えたりする以外に働かないのよ。心は駆けださないのよ。思ったり、考えたりするのが心の役目なんだもの。思いだした、考えだしたということになると、すぐそれが意識という状態になる。
 そして、一つのように見えてる意識が、その活動の上から仔細に区別すると三つになる。
三つとは何だというと、「肉性意識」と「心性意識」と「霊性意識」という三つのもの。
 それで、肉性意識のなかには「本能心」と「動物心」と「植物心」があるんだよ。心性意識のなかには「理性心」というのがあるわけだ。それから、霊性意識のなかには「霊性心」というものがある。
 第一の肉性意識というのは、肉体生命を生かすために必要な働きを行う心なんです。第二の心性意識というのは、精神生命のなかに存在する理性心から発生する意識なんです。第三の霊性意識というのは、人間の命の本体である霊魂という気体のなかにあるんだ。
 そして、その気体のなかにある霊性意識のなかに霊感、いわゆる第六感があるんですよ。
どうです? あなた方が生まれながら与えられてある霊感、第六感は霊性意識のなかにあるんだ。
 生きてる以上はみんなこの霊魂があるんだぜ。霊魂と言うから、何とかく仏教じみちまうけれども、生きてる命のもとをなしている気体があるんですよ。ただ、見えないもんだから、感じないもんだから、ないと思ってるかもしれないけど、あるから生きてんだぜ。この気がぬけちまうと死ぬんだよ。
 だから、ひどい打撃なんか受けて「気が絶える」とよく言うだろ、「気絶」すると。気絶しても、甦ってくりゃあ気が返ってくるけれども、返ってこなかったときには結局、死んじまうんです。気がぬけっちまうもの。 』

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月28日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート248

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート248』だ。

諸君、俗説であるから真偽のほどは確かではないが、9月28日は孔子先生の誕生日と言われている。
人は皆、天の命令により使命を預かって万物の霊長たる人間として生まれてくる日を定めてきた。
諸君も運命には二種類あることはすでに承知していると思う。
それは天命と宿命である。
天命は絶対で、宿命は相対的である。
どうにも仕様のない運命を天命といい、人間の力で打ち開くことできるものを宿命という。
女が女に生まれ、男が男に生まれたのは天命である。
現代に生まれたのも天命であり、どうすることもできない。
ところが今の人は、打ち開くことのできる運命にぶつかったときでも、それを天命という。
自分の努力が足らないことは棚に上げ、どうにも仕様がないという。

話は変わるが、孔子先生が「もう一人の自分から来る霊感がそう伝えてくれるんだよ。」と話していたね!
そもそも「霊感」とは何であろうか?
そこらへんの話をしてみよう。

肉体を本位に働いてる心から、あるいは理屈を本位に働いている心から妄想念というのは働き出すんだ。
妄想念は煩悶によって引き起こされる自分を苦しめるものだね!
霊性意識の中から働かないんだ。
霊性意識とは、やさしい言葉で言うと「本心・良心」のことだね。
だから、妄想念が除き去られれば、霊性意識が招かずして発現してくる。
霊性意識が発現すりゃ、そこに「自覚正念」というものが出てくるんだ。
いわゆる「霊感」というんですが、学問的に言うと、「自覚正念」。
同じことなのよ、「霊感」も「自覚正念」も。

「霊感」について「盛大な人生」で私は生前このように話している。
その一部を掲載しよう。

『この自覚正念、つまり霊感は人間の心の奥底に存在しているきわめて微妙な力なんだ。
 しかも、学問があろうがなかろうが、経験があろうがなかろうが、女であろうが男だろうが、オギャーと生まれたら、みんなもってるの、この不可思議きわまるありかたいものを。
 ただ、もってるにはもってるけども、もってることを知らないやつは、一生ぜんぜん使わない。
 私もね、アメリカ、ヨーロッパと世界の三分の二も歩いて、そしてあげくの果て、インドの山の中でカリアッパ先生から初めてこの話を聞いたんですよ。
 この話というのは、つまり、
 「おまえの心の奥底には、自覚正念というものがあるのを知ってるか?」
 「そんなものはありませんよ」と言ったら、
 「自分があるということを知らなければ、ないと否定してしまうのは乱暴な断定じゃないか。私たちが生まれおちてから死ぬまで、人生というものの真理と取っ組んで、こうして山の中で毎日、日にちを暮らしているのも、結局その力を掘りだしたいからなんだ」
 そのとき、私はこういう質問をした。 』

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月27日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート247

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート247』だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。

子曰く、「私が朝づみしたフレッシュハーブのオリジナルブレンドティーだ。 気持ちが落ち着くから、まーゆっくりと口にふくめて飲むとよい・・・ それから話をしよう。」

子貢、出されたハーブティーを口にふくめてゴクッと飲み込んだ。

子貢(しこう)曰く、「スーッとしたペパーミントとほのかなレモンの香りのレモングラスと甘い芳香のスペアーミントが醸し出す三つのハーブの清涼感が何とも言えませんね! 肩の力が抜けてリラックスしてきました。」

子曰く、「そうかい。 では、一息入って落ち着いたところで、子貢に調べてもらいたいことがある。」

子貢曰く、「調べてもらいたいこと・・・ はい、なんでしょうか?」

子曰く、「この度、子路(しろ)の推薦で入門した神北(かんぺき)のことだ。」

子貢曰く、「先生、神北君に問題があるというのですか?」

子曰く、「いや、まだそうは言っていない。 だから子貢に調べてもらいたい。」

子貢曰く、「あー、はい。」

子曰く、「神北は立ち振る舞い、並びに言葉づかいがどこかの国の君主かその臣下(しんか)か、また側近に仕えている者か、仕えていた者のどちらかだ。 実のところはわからないが、私のもう一人の自分から来る霊感がそう伝えてくれるんだよ。」

子貢曰く、「先生はいつから霊能者になられたのですか?」

子曰く、「そこらへんを話せば長くなる・・・」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月26日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート246

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート246』だ。

諸君、いよいよ舞台は孔子塾であるが、子貢(しこう)が孔子先生の御用でしばらく留守していたんだったね!
その用向きは何であったのだろうか?
さかのぼって、子貢が孔子先生から用事を言いつかる場面から始めることにする。

ここは、「書院の間」、孔子先生の書斎兼リビングであるである。
先生お気に入りの栴檀(せんだん)の香気がそこはかとなく漂っている。

子貢「書院の間」に入る「控えの間」で曰く、「子貢です。 お呼びでしょうか?」

子曰く、「おお、子貢か。 忙しいところ呼びだてして済まんな! さあ、こちらへ入って来ておくれ・・・」

子貢、一礼して「書院の間」へ向かう・・・

子貢、椅子に腰かけている先生に一礼して曰く、「御用件はなんでありますか?」

子曰く、「さあさあ、ここへ座りたまえ。 私は背が高く、体も大きい、もちろん顔もでかい・・・  それはともかく、座ったほうが目を見てお互いに話がしやすいからね!」

子貢、孔子先生の対面の椅子に座って曰く、「先生、私への用向きは何でありましょうか?」

子曰く、「まあまあ、そう急(せ)くな! 茶でも入れよう・・・ 一服して落ち着きなさい。」

子貢曰く、「先生、典礼役の仕事が午後から入っております。 若いものに指示を出さなきゃなりませんので、長居ができないのであります。」

子曰く、「そうは暇(いとま)はとらせはしないから、まあその間だけは、イライラせず心静かに!」

子貢曰く、「はい、このところ仕事が立て込んでいたもので申し訳ありません。」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風