2010年1月23日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート4

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート4」だ。

諸君、大勢門人がいると好き嫌い、妬(ねた) み、嫉(そね)み等、様々な感情がうずまくね。
「男も女も人間だものなあ!」
そう言いたくなる諸君もいやしませんかい?
そう言えば、相田みつお氏の言葉を借りて、言い訳にしている人、けっこう多いいね!
諸君も、何か都合が悪くなると「人間だもの」を言い訳にしていませんかな?
「だって人間だもの、嫉妬の一つや二つくらいしたってしょうがないじゃない。 それが人間だもの!」なんてね。
他人のトイレの中をのぞき見してるわけじゃないんだがね、何故か相田氏の名言集は、トイレの中にかけてあるのをちょくちょく見かけるんだがねぇ!
私の生前の言葉てぇのは、天風ファンの諸君はトイレにかけないねぇ?
何故だろうかな?
「意識的に肛門をしめて、同時に肩から力を抜いて、丹田に力を入れよ! クンバハ法 積極的に!」なんて書いてあったら、出るものも出にくいよなぁ・・・
あたり前だ、肛門しめてんだからね。

まぁー、男の嫉妬もあるということですな。
〈孔子様、命!〉の子路が、「回よ!回よ!」といって顔回ばかり可愛がるものだから、心中実に面白くない。

「俺なんか自慢じゃないが、先生のこと大好き、大!大!大好き!愛しているって思っているのに、先生に喜んでもらおうとすればするほど、『子路よ、お前は思慮にかける。 物事を慎重によくよく考えてから行動しなさい!』こればかりだよ。 『回は一を聞いたら十を知る。 子路よ、おまえも回を見習ってツメのあかでも煎じて飲みなさい。』じょうだんじゃないぜ! 『子路よ、お前の勇(ゆう)は、真の勇気ではないぞ。 おまえの勇気は思慮分別のない、浅はかな勇気だ。』 子路よ思慮がない―しゃれにもならないぜ。」

孔子先生が何を語っているかの真意がわからない、愚痴をこぼしてばかりの子路でありました。
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月22日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート3

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート3」だ。

孔子先生の直接の薫陶(くんとう)を受けれた門下生は大勢おられたであろう。
しかし、三千人もの孔門の弟子が、一箇所に寝食を共にしていたとは無理がある。
しかし、かなり大勢の者が、学んでいたことであろう。
であるからして、孔子先生の回りには、門人同士の中で、先輩、後輩の関係や、年功序列や、成績の順の序列、役割等の序列があったでありましょう。
ここでは、論語から学ぶ「男の嫉妬」の逸話創作物語であります。
タイトルは「男の嫉妬 一を聞いて十を知る! 百を聞いて一を知る」だ。
どうしてまあ、「嫉妬」という字は、女偏がダブルで合わさっているのかいね~?
男子は嫉妬しないのかいな?

「いつも上司に可愛がられて、あいつはいいなぁ~。 俺ときたらいつも怒鳴られたり、怒られてばかりいる。 上司ときたらあいつばかりほめて、身贔屓(みびいき)しやがって、その前で『君も彼を見習いたまえ』なんて言いやがる。 仕事じゃ俺の方が出来るのに、どうしてなんだい。 あいつは要領がいいものなぁ~。 しかし、上司とあいつの顔見るとほんとむかつくぜ!」

こんな心のつぶやき、過去においても、今現在においても、男性諸君は、なかったですかい?
これってひょっとして「やきもち」、これってひょっとして「男の嫉妬」ですかい?
もしこれ嫉妬であったら、嫉妬は女性特有のものではありませんな。
ということであれば、嫉妬も二通りつくらないと不公平でいけませんな。
男女平等です。
あえて、男(おとこ)偏をこしらえて、男二つで「男のしっと」と読む!
どうですかな?
え~え、私は中間! そうかい!そうかい!
男女中間なんだね。
半分半分なんだね。
男女どちらの気持ちもわかるから、それはそれで中立でよろしい!
そんな方は男半分、女半分にして書いてくれたまえ!
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月21日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート2

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート2」だ。

諸君、ここで最も重要な登場人物である回(かい)こと顔回(がんかい)と子路(しろ)こと季路(きろ)のプロフィールを紹介しておこう。

この回は、顔回(がんかい)という方のことだが、孔門十哲の第一番目にあげられる、孔子門下第一の優等生なんだ。
孔子が最もかわいがったと言われている。
若くして亡くなったものであるから、非常に孔子様は嘆かれたと言われている方だね。
孔子様は、自分亡き後、後継ぎにしようと考えておられた方のようだね。
孔子様にとっては頼りにしている期待の人物であったんだね。
もう一人ここで重要な登場人物がいるんだ。
子路といって孔門十哲の一人。
姓は仲、名は由、子路は字(あざな)。
勇を好んだとされている方だ。
孔子様にぞっこん惚れていたんだね。
孔子様のためなら、命の一つや二つや三つは捧げても惜しくない覚悟の献身的な方だったんだね。
そんな反面、かなりの乱暴者で、無鉄砲なやんちゃな性分だったようだね。
参考までに孔子門下の選りすぐりの十人をご紹介しよう。
「孔門の十哲」と言われる方々だ。
徳行に優れた顔淵(がんえん、顔回)、同じく閔子騫(びんしけん)、同じく冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、同じく仲弓(ちゅうきゅう)。
言語弁舌に優れた宰我(さいが)、同じく子貢。
政事に優れた冉有(ぜんゆう)、季路(きろ、子路)。
文学に優れた子游(しゆう)、同じく子夏(しか)の十人である。
その当時、孔子門下は三千人とも言われているらしいが、それ以上とも言われてもいる。
本当のところはわからないから、ここでは孔門三千人位の弟子がすでにいたという設定にしておこう。
その孔門三千の中の十人ですから、たいしたものだね。
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月20日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート1

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) ~論語創作ものがたり パート1」だ。

諸君、本日は「論語」について小難しいし、固い話をしてきたので、諸君も肩もこってきたであろう。
肩の力を抜いてリラックスして話を聞いて頂きたい!
よろしいであろうか?
「天風講釈師見て来たように言う」という言葉もあるかも。


孔子様と弟子の子貢(しこう)との会話のやりとりなんだね。
この子貢さんは孔子の弟子の中でも古参で、側近中の側近の方の一人だったんだろうね。
孔門十哲の一人にあげられているんです。
姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、子貢(しこう)は字(あざな)。
弁舌、政治力に優れ、斉が魯(ろ)を攻撃しようとした時、諸国を遊説し、これを救った。
また貨殖の才もあったと伝えられている。


せっかくだからキャストを決めようか!
ここでは天風が孔子先生の役、諸君が子貢役だと決めて、子貢 になりきって聞いて下されや!
題して「論語創作ものがたり」だ。
あと、ここで最も重要な登場人物がある。
回(かい)こと顔回(がんかい)と子路(しろ)こと季路(きろ)である。

これは第五編公冶長(こうやちょう)に出てくる有名な問答なんだ。
諸君も御存知であろう。

「子、子貢に謂(い)いて曰(いわ)く、『なんじと回といずれか愈(まさ)れる。』 対(こた)えて曰く、『賜(し)やなんぞあえて回を望まん。 回や一を聞いてもって十を知る。 賜(し)や一を聞いてもって二を知る。』 子曰く、『しかざるなり。 われとなんじとしかざるなり。』」

孔子様が子貢に問いかけた。
「お前は、回と自分とをくらべてみて、どちらが上だと思うね。 どうだろうよ?」
「先生、私など回(顔回 がんかい)には、とてもおよびもつきません。 彼は一を聞いて十を知る人です。 私はせいぜい一を聞いて二を知る程度です。」
「うん、そのとおりだ。 実は私も、お前と同様なのだ。」

この物語の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを



天意天風

2010年1月19日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート15

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート15」だ。

諸君、「論語」に
「己に克って礼に復(かえ)るを仁となす。一日己に克ち礼に復(かえ)れば天下仁に帰す。仁をなすは己に由(よ)りて人に由(よ)らんや」とある。

ここで言う「己」とは、天風の言うところの本来の自己、自我の本質ではない。
「自心という己の心」のことである。
「己に克つ」とは、つまり「克己心(こっきしん)」のことである。
「仁の心」は、自分がしようとしてできるもので、決して他人の力に頼ったり依存するものではない。
「天は自ら助くるものを助く」という諺がある。
本来の克己心とは、この言葉の裏がえしでもある。
「天は自らの心に克つものを助く」とも換言できうる。
両方の言葉からも、人生他力のみをあてにしては断然だめであるということを、合点せしめてくれていると言わねばならない。

渋沢哲学いわく、
「己が物我の己であるとすれば、克己心とは自分だけの主観に勝つ心である。 物我の己を制して常に本然の性-正常な客観の立場に立ち返らせるのである。 こうしてみると克己に最も必要なものは強固な意志の力であり、この力を善用すれば、常に克己は出来る。」

言うに及ばず、これについては何の異論もない。
天風哲学でいうと、克己心とは、
「正心誠意を以って、為されざる事柄というものは、たとえそれがいかに立派そうに見えても、断然人の世のためになるという尊い結果を作為しない。 況(いわん)や、人々の共同幸福のために努力しようとするには、崇高なる克己心というもの・・・すなわち自己に打ち克つ心が、これもまた何より必要である。」
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月18日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート14

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート14」だ。

諸君、「論語」は学而(がくじ)第一から堯曰(ぎょうえつ)第二十までの二十篇からなるもので、いちいちここでは、これ全てを渋沢哲学と天風哲学とに照らして解釈しているわけにもいかないので、重要な根幹になるものだけを述べさせて頂いた。
渋沢哲学のいう「論語」を、余計なものを、余計な固定観念を捨てて、そのまま読み、自身に活かすことを勧めている。
時代の変遷とともに、儒家と称する者たちの固定観念から解放されて論語をそのままを開くと、そこには、いきいきとした、今の今もいきいきとした、血の通う人間集団の人生ドラマが展開している。
渋沢人生哲学もしかり、天風人生哲学もしかりである。
「人間とは何か? いかなるものか? 真の人間らしさとは何か? 真人生に生きるとは何か?」
という命題をよくよく考えさせてくれるものに相違ない。
これこそ、「論語」が長い生命を持ち続け、現代人にとっても共感を覚えさせてくれる理由ではないだろうか?
渋沢哲学しかり、天風哲学しかりである。
根幹に流れているものは、宇宙の天の摂理であり、人間真理であるからだ。
そこには「論語」の中の「仁」「義」「礼」「智」「信」などの徳目が、その教訓として、戒めとして語られているが、天風哲学では「誠と愛を持って一切に応接する」ということを、生前より終生一貫して述べてきたんだ。
私に言わせれば、「仁の心」とは、「誠と愛の心」ということになる。
その至上なるものが、「本心・良心に基づく人の心の思いと行為の真心の状態」をさして「誠心誠意」と言ってきたんですよ。
真心を持って一切の物事に応接するということはね、心身統一された一つの状態にあるんですよ。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月17日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート13

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート13」だ。

諸君、私の代筆をしてくれている黒子君は、これからの二十一世紀において必要不可欠とされる天風哲学を今の時代に換言して、「真我の要諦」を主題として、『天真爛漫自分塾』を一念発起して二カ年ほど前よりはじめたんですよ。
「天真爛漫」とは、ご存知であろうが、あえて説明するならば
『純真で心の中が素直に表れていること。 無邪気でこだわることがないこと。 またそのさま。』と一般的に訳されていますね。

そこでだ! 渋沢さんは、ほぼ私と同じ意見であるのであるが、その言葉をあえて掲載することにする。

「無邪気について一言しておきたい。
世の中を見渡すと、どうも知恵の優れた人物には無邪気の者が少ないように思われる。
ややもすれば知恵の力を借りて心にもない意見を吐いてみたりして、何事でも知恵で人を押さえ込まなければ、知者として、また学者としての本分が立たないと考えているものが少なくないらしい。
したがって知恵を働かす者の多くは、もともと有邪気(ゆうじゃき)に傾きやすいことになる。
しかし知恵があり学問があるからといって、必ずしもその人が無邪気になれないことはないだろうと思う。
無邪気という言葉について考えてみると、邪念のない素直な天真爛漫な性情である。
痴呆(ちほう)とか愚鈍(ぐどん)とかいう意味とは全然違う。
痴呆だ愚鈍だと言われたら恥辱だが、無邪気だと呼ばれても誹謗(ひぼう)の要素は少しも含まれないはずだ。
知恵の働き、学問の積み重ねが十分あって、それで天真爛漫の態度を維持し、知恵や学問を活用していくならば、その人格は実に立派である。
知力や学問の力を悪用して有邪気に働かせるから多くの弊害が起こるので、それと反対の態度で無邪気に活用させる人ならば、そここそ真の世の中の宝である。
知恵があり学問があればあるほど、いっそう無邪気であることを願うべきではないだろうか。
そういう性格の青年が私の好む人物だが、現代の社会もみなこのような青年を歓迎すると思う。
実業界に志すか否かにかかわらず、今日の青年はできればそういう性格を養うことを希望する。」

以上、私に限らず誰しも、もちろんこれに異存はないでしょうよ。
本日はこれまで。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風