2010年1月17日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート13

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート13」だ。

諸君、私の代筆をしてくれている黒子君は、これからの二十一世紀において必要不可欠とされる天風哲学を今の時代に換言して、「真我の要諦」を主題として、『天真爛漫自分塾』を一念発起して二カ年ほど前よりはじめたんですよ。
「天真爛漫」とは、ご存知であろうが、あえて説明するならば
『純真で心の中が素直に表れていること。 無邪気でこだわることがないこと。 またそのさま。』と一般的に訳されていますね。

そこでだ! 渋沢さんは、ほぼ私と同じ意見であるのであるが、その言葉をあえて掲載することにする。

「無邪気について一言しておきたい。
世の中を見渡すと、どうも知恵の優れた人物には無邪気の者が少ないように思われる。
ややもすれば知恵の力を借りて心にもない意見を吐いてみたりして、何事でも知恵で人を押さえ込まなければ、知者として、また学者としての本分が立たないと考えているものが少なくないらしい。
したがって知恵を働かす者の多くは、もともと有邪気(ゆうじゃき)に傾きやすいことになる。
しかし知恵があり学問があるからといって、必ずしもその人が無邪気になれないことはないだろうと思う。
無邪気という言葉について考えてみると、邪念のない素直な天真爛漫な性情である。
痴呆(ちほう)とか愚鈍(ぐどん)とかいう意味とは全然違う。
痴呆だ愚鈍だと言われたら恥辱だが、無邪気だと呼ばれても誹謗(ひぼう)の要素は少しも含まれないはずだ。
知恵の働き、学問の積み重ねが十分あって、それで天真爛漫の態度を維持し、知恵や学問を活用していくならば、その人格は実に立派である。
知力や学問の力を悪用して有邪気に働かせるから多くの弊害が起こるので、それと反対の態度で無邪気に活用させる人ならば、そここそ真の世の中の宝である。
知恵があり学問があればあるほど、いっそう無邪気であることを願うべきではないだろうか。
そういう性格の青年が私の好む人物だが、現代の社会もみなこのような青年を歓迎すると思う。
実業界に志すか否かにかかわらず、今日の青年はできればそういう性格を養うことを希望する。」

以上、私に限らず誰しも、もちろんこれに異存はないでしょうよ。
本日はこれまで。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風

0 件のコメント:

コメントを投稿