本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート256』だ。
諸君、昨日の引き続きであります。
子曰く、「もちろんだ。 磨かれるべく素材があってこその研磨である。 ダイヤモンドの原石は一見するとただ炭と同じく黒いだけである。 やはりよくよく磨いてこそ光にあてるとあのような輝きを放つのであるから、私も子貢も弟子たちもここでこうして学んで正しく考えることで輝きを増すために研磨しているのだ。」
子貢(しこう)曰く、「素材がダイヤモンドの原石ならいざ知らず、ただの石ころだとしたら磨きがいがないではありませんか。」
子曰く、「子貢よ、知ることは聡明(そうめい)を増すことである。 しかし、正しく考えることは一層心を研(と)ぐことになる。 さらに行ずることによって、自らを正しく救うことになる。 玉みがかざれば光なし。 と同時に、道端にあるただの石ころであるとしても、石もみがけば玉となることあり。 また玉にならないまでも、みがかぬ玉よりははるかに良くなることは必定である。」
子貢曰く、「以前、先生に私をご批評願いますとお願いしたら、先生は『お前は器(うつわ)だ』と申されました。 私は『器(うつわ)と申しますと?』と尋ねますと、先生は『瑚璉(これん)だよ。 瑚璉は器としては最高のものだ。』と言われました。 ダイヤモンドの原石の石ころと瑚璉との違いをどのように見分けておられるのですか?」
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
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