2010年7月4日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート162

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート162」だ。

諸君、昨日は渋沢栄一翁の著述を掲載させて頂いたが、その中で特筆すべき点は、
「仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈(ぐまいひくつ)でその域に達するものではない。大学の致知格物(ちちかくぶつ)も、王陽明の致良知(ちりょうち)も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえっておのれの良知を増し、おのれの霊光を発揚(はつよう)するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり、物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就(しゅしゃきょしゅう)に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。」
と述べられたところである。
これについて、異存はないが、「致知格物」、「致良知」について私なりの見解と有意すべき注意点を述べたいと思う。
生前に「日常生活を行なう際、能(あた)う限り、善なることを行おうと心がけることは、人生の最も尊いことである。」と語ってきた。
諸君らは、「善」と言うと「悪」と対比して考えがちだ。
これは人為による善悪の道徳律で、時代の変遷、人心の価値観の推移によって変化するものだ。
諸君らも、子供の頃と、今現在であれば、至極当然物のとらえ方、考え方は変わっているに違いない。
人為的な道徳律では、極端に言えば、昨日の「悪」が、今日には「善」になったり、逆に今日の「善」が明日の「悪」になったりする。
一日前は名誉なことであったが、明ければ不名誉となり、その逆もまたしかりである。

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

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