2010年7月3日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート161

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート161」だ。

諸君、昨日の引き続きにあるが、陽明学の祖、王陽明の陽明学の致良知について述べてみたい。

大辞林によると「
王陽明は(1472~1528)中国,明代の儒学者。浙江省余姚(よよう)出身。 名は守仁、字(あざな)は伯安、諡(おくりな)は文成公。陽明は号。朱子学に満足せず、心即理・知行合一(ちこうごういつ)、致良知を説き、陽明学を完成、実践倫理への道を開いた。 また、寧王宸濠(しんごう)の乱を平定するなど軍事的才能もあった。著「王文成公全書」、語録「伝習録」がある。 」とある。

「論語と算盤」の中の「誤解されたる修養説を駁す」で渋沢栄一翁もこのように述べている。

「修養ということについて、私はある者より攻撃を受けたことがある。その説は、大体二つの意味に分かれていたのである。その一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷つけるから宜しくないと言うので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言うのであった。よってこれらの異見に対して答えておいたことを、左に述べてみようと思うのである。
 まず修養は、人の本然の性の発達を阻害するから宜しくないというは、修養と修飾とを取り違えて考えておるものと思う。修養とは身を修め徳を養うということにて、練習も研究も克己も忍耐もすべて意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくように力(つと)めるということで、それがために人性(じんせい)の自然を矯(た)めるということはないのである。つまり人は充分に修養したならば、一日一日と過(あやま)ちを去り、善に遷(うつ)りて聖人に近づくのである。もしも修養したために、天真爛漫を傷つけると言うならば、聖人君子は完全に発達した者でないということになる。また修養のために偽君子となり、卑屈に陥るならば、その修養は誤れる修養であって、われわれの常に言う修養ではないと思う。人は天真爛漫が善いということは、私は最も賛成する所であるが、人の七情すなわち喜怒哀楽愛悪慾の発動が、いつ如何なる場合にも差し支えないとは言われぬ。聖人君子も発して節に中(あた)るのである。ゆえに修養は人の心を卑屈にし、天真を害するものと見るは、大なる誤りであると断言するのである。
 修養は人を卑屈にするというに、礼節敬虔(けいけん)などを無視するより来る妄説(もうせつ)と思う。およそ孝悌忠信、仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈(ぐまいひくつ)でその域に達するものではない。大学の致知格物(ちちかくぶつ)も、王陽明の致良知(ちりょうち)も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえっておのれの良知を増し、おのれの霊光を発揚(はつよう)するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり、物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就(しゅしゃきょしゅう)に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うに大なる誤解で、極言(きょくげん)すれば、修養は人の智を増すにおいて、必要だということになるのである。これをもって修養は智識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨(はし)って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容(あいい)れぬごとくに思うのは、大なる誤りである。
 蓋(けだ)し修養ということは広い意味であって、精神も智識も身体も行状も向上するように練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ。かくて息(や)むことなければ、遂には聖人の域にも達することができるのである。
 以上は私が二つの反対説、すなわち修養無用論者に対して反駁(はんばく)したる大要であるが、青年諸氏もまたこの考えで、大いに修養せられんことを切望するのである。」

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

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