本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート48」だ。
諸君、熊沢蕃山(くまざわばんざん)、二宮尊徳の両偉人も「論語」は若い時より幾度となく熟読し、坊主が経文をくり返し、読経し勤行することによって、いつしかそらんじるまでになるがごとくになっていたんでしょう。
二宮さんも、まきを担いで読んだ一冊の本の中に「論語」もあったであろうと推測できますな。
私こと天風が少年の頃に、あの熊沢蕃山と言う人の作った歌を見たときに、「ああ人間これでなければいけないなぁ」と思った。
『憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身のちからためさん』
「憂きことの」だから、憂いだね。
悪い状態になることを予想し、心配することだね。
ああなりはしないか、こうもなりゃしないか、例えば、風邪がずいぶんと長びいていっこうに治らないがひょっとしてガンじゃないかしらん等々色々の憂き思いのことだよ。
つまり、心配の不安の心の意識状態だね!
また悲しい、さびしい憂愁の心境だな!
「憂きことよ、なおこの上に、つもれつもれ。 俺は決してまけないぞ」という気持ちだ。
この人の有名な詩の中で、私の心を打ったエピソードを話そう。
蕃山は、山の上の一寒村に貧しい暮しをしていたが百姓の家に生まれた人なのだ。
もっとも血筋は大変よかったらしいんだが、落ちぶれて、結局は、山家住いの身になったんだが、やっぱり血筋がいいだけに、学問を志して、自分の畠に出来た野菜を担いでは村々、町々に売って歩くかたわら勉学にいそしんだ。
山二つ越したところに、中江藤樹(なかえとうじゅ)という、儒者で我が国陽明学派の祖、その当時の優れた学者の一人がいた。
その当時は、身分のいやしい者は、武士の講義する席上に入ることは許されないから、蕃山は講義の始まる時間に来て垣根の外で、うずくまりながら、垣根越しに中江藤樹の講義を聞いていた。
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
0 件のコメント:
コメントを投稿