本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート3」だ。
諸君、「論語」は、孔子と弟子の対話による言行録であることは、今さら偉そうに言うまでもありませんな。
その「論語」を通して、孔子と弟子のやりとりで、孔子の処世術や孔子の性格やその意味を、渋沢哲学と天風哲学に照らし合わせて考察してみたい。
また、渋沢哲学と天風哲学は、真理を表現している一つの側面として、そのプリンシプルとなる柱(はしら)は、相通じるものがある。
ここでは、諸君に天風の「論語」観を少しずつ述べてゆきたいと考えている。
天風さん、何を言いたいんだいと問われれば?
天風流「論語」観を中心基軸にして、論語を解釈するとどんなとらえ方、考え方になるかということだね!!
わかりにくいかい?
つまり、天風流のものさしやスケールでの新説「論語」解釈ですよ。
まず、渋沢さんと天風の相通じる共通の側面は、渋沢さんが生前にこのように述べているんだよ。
「世に生まれ出たのは、直接には父母の恵みであるが、本源は、造物主であって、何事かやるべき使命を与えて、自分をこの世に出したのだから、使命を全うするのは人間の義務である。
才能がある者はあるだけ、また少ない者も少ないだけの才能を用いてそれぞれ力を尽くすのが、人としてこの世に対する義務であると私は確信している。
私自身、ここに人生の方針の基準を置いている。
これは必ずしも『論語』から得たものでもなければ、仏教や神道に学んだわけでもない。
ましてやキリスト教によるはずもないから、ただ私の性格から自然にこのように信じるよりほかない。
もっとも論語には天の使命に関することが説いてある。
孔子は、『怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず』と言って、仏教のように三世(さんぜ)を説かないが、論語一編を通読すると、孔子も自分以外に自分を導くものがあることを信じていたようだ。
孔子自身もまたその一生を天の命じるところに捧げたのだろうと思う。
私はこの世に生まれた人は、いずれも天の使命を帯びていると信じているから、自分もまた社会のこと、公共のことには出来るだけの貢献をし、その使命を果たしたいと考えている。
単に実業家として一身の利益を図り栄達(えいたつ)を望むのなら、他に財産を蓄える方法があるかもしれないが、これは私の主義でない。
また死んでいくこの身が巨万を蓄え、これを子孫に遺すということもやりたくない。
ふだん私が公共のことに心がけて、一般の実業家とやり方をやや異にしているのも、要するにこの信念からきたものである。」
諸君、この続きは、明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
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