本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート2」だ。
諸君、今回のこのテーマの話にちょっとずれるところがあるかもしれませんのであらかじめご了承下さいな。
前回の「和顔平気パート4」でのご質問がありましたので、天風なりの解答と解釈をいたすことにする。
その質問は、
「アルカイックスマイルと呼ばれている仏像のことなんだよ。 その顔の特徴は、唇の両端がやや上向きになり、つまり口角がほどよく上がっているんだ。 そして目は静かに半眼に開いている。その顔が微笑みを浮かべたようにみえる。 『和顔』の最たるイメージだ。旧(むかし)から口角を上げることは、人に対して良いイメージを与えているということなんだね!」の話の中で、
「口角をほどよく上げることはよくわかります。 何故その仏像は目を半分開いているんですか?」という純粋な疑問の問い合わせでありました。
私に聞いて頂くより、作った方に聞いて頂くのが一番だろうが、そうもいかんでしょうから、私、天風の思うところでしたら、という条件付きで、述べたいと思うがいいでしょうかな?
「ま~よい」という御返答として話をさせていただきましょうかね!
私は生前に自分で木彫りの観音様を拵(こしら)えたことがあるんだね。
観世音菩薩の菩薩の心が好きでね。
それはね、生前にねえ、私ね、真理の在(あ)り様(よう)にいろいろと気づいてね、ま~その過程なんだがね、
救わないではいられないから救おうと。
見るに見かねちまうからね。
教えずにいられないから教えるんだという気持ちでやりだした。
そうするとね、救わずにはいられないから救おうと思ってやっても、救えない場合、教えずにいられないからと思って教えてもわからない人間がいると、もうどうにもたまらない悶(もだ)えを感じたもんだ。
「何を説いたらいいか、本当に難しいなあ、もう駄目だ。 いっくら努力して説いても、本当にうなずいてくれる人がいないなんて、ずいぶんだ。」って。
それが、いつとはなしに、今は『ただあるがまま』になったけど。
ただあるがまま、正しいこと言ってさえすりゃいい。
そうすれは、正しいことに共鳴した者がくっついてくるんだから。
救わずにいられないとか、教えずにいられないという心は、まだ『とらわれ』であります。
ただあるがまま。
これはね、仏教の『菩薩たる責務』というのをいっぺん読んでから、ああ、そうかと私、思った。
菩薩というのは大悟(だいご)達成、大事貫徹の人のことを言うんだが、諸君(あなた方)だって修養を貫徹してごらん。
救ってあげようと思わなくても、救っちまうから。
この人に教えてやろうと思わなくとも、わかっちまうから。
これは天風の生前の境地を述べたものですよ。
そのあるがままの境地を人々に一目見(ひとめみ)てわかるようにあらわしたものが、仏師の魂を持つ者達の手によって作られた仏や如来、観世音菩薩や各諸菩薩の似姿をあらわしている像と思う。
調和のとれたその姿は、ただただ美しい!
私はそう感じている。
話が長くなったので、この続きは明日させて頂くことにする。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
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