2009年12月28日月曜日

善いことは徹底してまねる パート10

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート10」だ。

諸君、「善いことは徹底してまねる」というテーマで語ってきました。
「善いこと」を徹底してまねるということの「善いこと」の真意は、なへんにあるか。
ここらへんの大切なことを御理解されないと、何でもまねすりゃいいんだと、単なるうわっらだけのサルまね、人まねになって、「仏の像の形だけつくって中身の魂(たましい)入れず」ということになりかねんからな。
往々にしてあるというよりほとんどがこれだ。

御存知かもしれんが、私の恩師、頭山満(とうやまみつる)翁(おう)の居室に、西郷隆盛がこよなく好まれた言葉「敬天愛人」と書かれた額が掲げてあったのを、あるとき野田大塊(のだたいかい)が見て、「こりゃ偽物たい」と言うと、ニコニコしながら、「偽物でも何でも文句が善かけん、おいどんは本物だと思うて朝夕有りがたく心の鏡として見とるよ」と、こともなげに言われた。

どんな言葉でも人間真理を表した言葉は、とらえる人間および、とらえ方において、含蓄の深い意味がこめられているのもだ。
頭山恩師は西郷南洲翁をこよなく尊敬されていた。
書が本物かということよりも、書かれている言葉に西郷さんを良師とし、良師が指針とされていた言葉は、師の言葉として、また心の鏡として、また至心としていたんだ。
私は二人のやりとりの一部始終を傍らで耳にした。
なるほど模倣に対する結局は、その心の思い方、考え方で、それが人生観となり、心のとらえ方、受け方となって、何事においても、ひょんな出来ごとでも、何気なしの出来ごとであっても対人態度、交人態度、自身の人生態度になってあらわれ出てくるものなんだとつくづくその言葉から計り知れない尊いものを直感したものである。
今日はこれまで。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

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