2010年9月10日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート230

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート230」だ。

昨日の引き続きであります。

 それから、中には、人に忠告したり勧告したりするとき、その忠告や勧告に応じてくれないと、やたらと胸くそを悪くする人かある。これも滑稽千万である。第一、無理な注文である。あなたのその言葉に応じるか応じないかは、向うの勝手だ。人の意思は自由だから、こっちで干渉する権利はない。
 もっと滑稽な人間になると、人に親切にしてやって、相手がその親切に感じないと、盛んに怒っている者がいる。
「何よ! あの人、恩知らず!」なんて……。
 それからまた、愚にもつかないこういう人間もいる。
 自分の仕事などが、うまく思うとおりにいかないと、とっても、がっかりして、へこたれて、意気消沈してしまう。箸一つ切れなかったり、竹一つ切れなかったりすると、一日中意気消沈しているような間抜けもいる。
 ただ、往生のときを早めるだけじやないか。この世の精算を早めるだけじやないか。他に、何の効果も来やしない。人生は主観だ! 心一つのおきどころだ!
 いったいなぜ人間はこういうようなんだろうかということを考えてみよう。
 たとえば、病のときなんか、「なにくそ! こんな病に負けてたまるか」と考えればいいんだけれど、考えられないのはなぜか、ということを考えてみよう。
 自分の仕事だからこそ、「これが心配せずにいられるか。これが悲観せずにいられるか……」と。しかし原因は何と、極めて簡単なところにあるのだ。どういうところにあるかというと、結論的にずばり言えば “勇気” がないからなのだ。否! 勇気が欠けているからだ。勇気はあるのに、出し方がわからないから、人生を活きる際に、非常に勇気が足りないものが出てくるのだ。
 勇気が落ちたら、いくら積極的にしようと思っても、“いざ、さらば” というときに積極的にならない。普段の習慣が大事なのである。勇気というものは、人生を統一する一切の根本基礎なのだ。
 繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考えると、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。
 ちょうど、扇風機は、扇風機のモーターの力で回っているのではない、扇風機を回している力の元は、エレクトロンとプロトンという “気” である。
 よく考えてみれば、すぐ解ることだけれども、頑健な肉体を持たず、見るからに弱々しい体であっても、相当に長生きをし、世の中のために仕事をなしている人が、昔から随分といる。イマヌエル・カントや、ヘレン・ケラーや平田篤胤(あつたね)、貝原益軒というような人は、その代表的な人達だ。もちろん、肉体が強いに越したことはないけれども、いかに肉体が発達しても、それはただ単に、生命の物質的方面のみの発達だ。心の方面が積極でないかぎり、理想通りの最高の生命の発達は出来ない。
 というのは、いまいったとおり、人間の生命の本体は、精神生命の根元である無形の霊という “気” であるからである。
 今の話のとおり、いかに立派な扇風機を拵(こしら)えてみたところで、モーターの中のコイルの捲き方が不完全であったら、充分にこの気を受け入れることが出来ない。形だけは立派でも少しも回らない。だから、完全に、生命を活かす計画の成就は、生命の本体たる霊という気を、完全なる姿で、この生命を確保しなければいけない。
 その第一の先決問題は何か!
 それは、心を健全に活かすことである。

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2 件のコメント:

  1. とても魅力的な記事でした。
    また遊びにきます。
    ありがとうございます。

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  2. あろえさん
    コメント、ありがとうございます。
    また遊びに来て下さいね。

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