本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート145」だ。
諸君、バイザー京華(きょうか)の口舌(こうぜつ)態度の豹変(ひょうへん)ぶりに店内のお客が唖然として沈黙してしまったんだ。
よく「口は禍(わざわい)の門である」といいますね。
また「沈黙は金、雄弁は銀」とも言います。
渋沢翁も「論語と算盤」の中でこんなことを言っている。
余は平素多弁の方で、よく種々(いろいろ)の場合に口を出し、あるいは演説なぞも処嫌わず、頼まれればやるので、知らず識らず言い過ぎることなぞあって、人からしばしば揚げ足を取られたり、笑われたりすることがある。 しかし、如何に揚げ足を取られようが、笑われようが、余はひとたび口にして言う以上は、必ず心にもないことは言わぬという主義である。 したがって、自分自身では妄語(もうご)したとは思っておらない。 あるいは世人には、妄語と聞こえる場合がないでもなかろうが、少なくとも自分は、確信のある所を口にしたつもりでいる。 口舌は禍の門であるだろうが、ただ禍の門であるということを恐れて一切口を閉じたら、その結果はどうであろう。 有要な場合に有要な言(げん)を吐くのは、できるだけ意思の通ずるように言語を用いなければ、折角のことも有邪無邪中(うやむやちゅう)に葬られねばならぬことになる。 それでは禍の方は防げるとしても、福の方は如何にして招くべきか、口舌の利用によって福も来るものではないか。 もとより多弁は感心せぬが、無言もまた珍重すべきものではない。 唖(おし)はこの世の中において、如何なる用を弁じ得るか。
余のごときは多弁の為に禍もあるが、これによってまた福も来るのである。 例えば、沈黙していいては解らぬのであるけれども、一寸(ちょっと)口を開いたために、人の困難な場合を救ってやることができたとか、あるいはよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いて貰ったら宜しかろうと頼まれて、物事の調停をしてやったとか、あるいは口舌のあるために、種々の仕事を見出すことができたとかいうように、すべて口舌が無かったら、それらの福は来るものではないと思う。 して見れば、これらは誠に口舌より得る利益である。 口は禍の門であるとともに、福の門でもある。 芭蕉の句に「ものいへば唇寒し秋の風」というのがある。 これも要するに、口は禍の門ということを文学化しかものであろうけれども、こういう具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる。 極端に解釈すれば、ものを言うことができないことになる。 それではあまり範囲が狭過ぎるのである。
口舌は実に禍の起こる門でもあるが、また福祉の生ずる門でもある。 ゆえに福祉の来るためには、多弁あえて悪いとは言われぬが、禍の起こる所に向かっては言語を慎まねばならぬ。 片言隻語(へんげんせきご)といえども、決してこれを妄(みだ)りにせず、禍福の分かるる所を考えてするということは、何人にとっても忘れてはならぬ心得であろうと思う。
この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
妄語(もうご) ― うそをつくこと。 不実な言葉。
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