本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート236」だ。
諸君、昨日のひきつづきであります。
以前にもふれたことがあるが、孔子先生は、仁者、君子と人間をより分けるのではなく、万人共通の人間の本性としてすでに持ち来らしている人間真理として捉えていたのっではないかと推論する。
「論語」「里仁(りじん)篇」の中にこう述べている。
子曰く、「参(しん)や、わが道は一をもってこれを貫く」。 曽子(そうし・参)曰く、「唯(い)」。 子出(い)ず。
門人問いて曰く、「なんの謂(いい)ぞや」。
曽子曰く、「夫子の道は、忠恕のみ」。
この対話の意味は、
「参(しん・曽子)よ、私という人間はただ一つのプリンシプル(原理、原則)だけで貫かれているのだ。」
この孔子の言葉に、曽子(参)はただ「ハイ」と返事をし、うなずいただけであった。
孔子先生がその場を立ち去ると、居合わせた門人が曽子にたずねた。
「参さん! 孔子先生は何をおっしゃりたかったのか私にはその意味がさっぱりわかりませんでした。 参さんは、うなずいておられましたが、何のことを言っておられたのでしょうか?」
「それはね、先生は、良心を偽らぬこと『忠』と、他人への思いやり『恕』とが人倫の根本であり、人間真理であるとおっしゃったのだよ。」
私で言えば「積極一貫」ですな。
諸君等も、どういう場合に直面した時でも、本心良心に悖(もと)らないようにすることです。
自分の言葉や行ないは常に本心良心そのままという気持ちを心がけの第一とされたのであります。
よく「誠心誠意」といいますが、この誠心誠意というのは、本心良心がその大根大本(おおねおおもと)となって、本心良心に悖りさえしなかったら、自分の仕事に対して情熱の炎が焔々(えんえん)として燃えるであろうし、そして常にその気持ちにむらというものがないことになります。
むらのない心から働きだされる事柄にどんな結果がくるか、これはもう考えなくてもおわかりのことと思います。
この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風
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