2010年9月18日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート238

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート238』だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。

子貢(しこう)曰く、「これにて一件落着! では、お開きといたしましょう!」

顔回(がんかい)曰く、「神北(かんぺき)君、そちらはそちらでお会計してくれたまえ。 こちらは子貢君がおあいそをすることに決まっているから!」

神北曰く、「はい、記念撮影もありますので・・・。 では京華(きょうか)さんに『おあいそ』お願いしますと伝えてきます!」

子貢曰く、「神北君! あっ、ちょっと、僕の支払いは『いつもニコニコカード払い』でお願いしてます。 この店は、カード払いOKか聞いてきて下さい!」

神北曰く、「あっ、論民はチェーン店で、私は以前、他店の論民でカード払いしましたから大丈夫と思いますよ。」

子貢曰く、「そうですか。 私は明日・・・、あっ、いやぁ~もう深夜の2時ですよ! 今日孔子先生に報告をする約束をしていますので、皆さん、さっさと帰る準備をしましょう。」

神北戻って来て曰く、「子貢さん、カード払いOKです。 1Fでカメラのセッティングはできているそうです。 いつでもどうぞと言うことです。」

子路(しろ)曰く、「では、引き上げるとするか! (顔回の下足札を見て)何ぃ! 俺専用の『“こ”の一番』の下足札じゃないか!」

顔回曰く、「『“こ”の一番』のこの下足札がどうかしましたか?」

子路曰く、「俺は『“こ”の一番』は子路様専用の下駄箱なんだ。 この店の主人に『長嶋茂雄の背番号 “3” と同じく永久欠番にしろ! 俺以外の者に使わせるな!』ときつく言ってあるんだぜ!」

顔回曰く、「先輩、『“こ”の一番』にこだわる理由でもあるんですか?」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月17日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート237

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート237」だ。

諸君、聖人君子でないかぎり、諸君も「気咎(とが)め」を感じたことは今までに一度や二度や三度はあるじゃないですかい?

子路(しろ)曰く、「神北(かんぺき)、お前をかえって苦しませてしまった。 すまんことをした。 許せ! ただし聞き捨てならぬことを言ったな! 神北よ、改めて聴く、この居酒屋で初めて会ったのも偶然じゃなくして、孔家門人の子路様だと承知のうえで近づいたのか?」

子貢(しこう)曰く、「まあまあ、先輩、神北君も正直に詫びているんですから、その話は後日にしましょうよ! ここは、お互いに同門の弟子として、変わらぬ友情を誓いあって乾杯してお開きにひましょうよ! 子路先輩、回さん、神北君、いかがですか?」

子路曰く、「もちろん異存はない! おれも気咎めを感じていた。 それが今は『八面玲瓏(はちめんれいろう)、磨(みが)ける鏡のごとき』という心境だぜ。」

顔回曰く、「私も同感です。」

神北曰く、「不肖神北、皆様方のお仲間に入れていただき、光栄です。 私、神北は、変わらぬ友情を誓います。」

子貢曰く、「それでは、芽台酒(マオタイジュウ)で、変わらぬ友情を誓ってシメの乾杯といたしましょう! 乾杯の音頭は、子路先輩お願いします。」

子路曰く、「よっしゃ! では、孔子先生ならび諸君らの健康と我ら四人の変わらぬ友情を誓って乾杯!」

顔回、子貢、神北そろって曰く、「かんぱい!」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年9月16日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート236

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート236」だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。
以前にもふれたことがあるが、孔子先生は、仁者、君子と人間をより分けるのではなく、万人共通の人間の本性としてすでに持ち来らしている人間真理として捉えていたのっではないかと推論する。

「論語」「里仁(りじん)篇」の中にこう述べている。

子曰く、「参(しん)や、わが道は一をもってこれを貫く」。 曽子(そうし・参)曰く、「唯(い)」。 子出(い)ず。
門人問いて曰く、「なんの謂(いい)ぞや」。
曽子曰く、「夫子の道は、忠恕のみ」。

この対話の意味は、
「参(しん・曽子)よ、私という人間はただ一つのプリンシプル(原理、原則)だけで貫かれているのだ。」
この孔子の言葉に、曽子(参)はただ「ハイ」と返事をし、うなずいただけであった。
孔子先生がその場を立ち去ると、居合わせた門人が曽子にたずねた。
「参さん! 孔子先生は何をおっしゃりたかったのか私にはその意味がさっぱりわかりませんでした。 参さんは、うなずいておられましたが、何のことを言っておられたのでしょうか?」
「それはね、先生は、良心を偽らぬこと『忠』と、他人への思いやり『恕』とが人倫の根本であり、人間真理であるとおっしゃったのだよ。」

私で言えば「積極一貫」ですな。
諸君等も、どういう場合に直面した時でも、本心良心に悖(もと)らないようにすることです。
自分の言葉や行ないは常に本心良心そのままという気持ちを心がけの第一とされたのであります。
よく「誠心誠意」といいますが、この誠心誠意というのは、本心良心がその大根大本(おおねおおもと)となって、本心良心に悖りさえしなかったら、自分の仕事に対して情熱の炎が焔々(えんえん)として燃えるであろうし、そして常にその気持ちにむらというものがないことになります。
むらのない心から働きだされる事柄にどんな結果がくるか、これはもう考えなくてもおわかりのことと思います。

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月15日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート235

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート235」だ。

諸君、神北(かんぺき)ではないが、人間、何か道に外れた事を言ったり、あるいは不道理なことを行う場合、また行なった場合にも、何とはなしに気の重い後ろめたさを感じるものだね!
これが「気咎(きどが)め」というやつですよ。
何とも、言うに言われない嫌な気持ちを感じるものでありますよ!
どんな人間にも本心良心がある証拠には、悪いことをする人間も公然と悪いことはしません。
本心良心の咎めがあるからですよ。

「論語」「顔淵(がんえん)篇」の中にこう述べている。

司馬牛(しばぎゅう)、君子を問う。 子曰く、「君子は憂(うれ)えず懼(おそ)れず」。 曰く、「憂えず懼れず、すなわちこれを君子というか」。 子曰く、「内に省(かえり)みて疾(やま)しからずんば、それを何をか憂え何かを懼れん」。

この対話の意味は、
君子たる者の資格について司馬牛から質問された時、孔子はこう答えた。
「心に心配や恐れがないのが君子だぜ。」
「それだけで君子と言えるのでしょうか?」
「良心に照らして恥じるところがある。 また後ろめたさを感じるのであれば、良心に対しての気咎めで、心配や恐れから自らの心が解放されないのだぞ。」

ですから、現在も永久にも、自分がやましい気持ちを感じないというものこそ、本心良心のあらわれなんですぜ。

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月14日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート234

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート234」だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。

子貢(しこう)曰く、「先輩、回(かい)さんによく謝ってくれました。 先輩の弟弟子、不肖子貢、心よりお礼申し上げます。」

子路(しろ)曰く、「子貢よ、貴様は天性の司会典礼役だな。 この度のことはお前にも迷惑をかけ、骨を折らせたな・・・ 礼を言うよ。 ありがとう!」

子貢曰く、「いえいえ、どういたしまして・・・ さてさて先輩!  先ほど私が神北(かんぺき)君に事の次第の説明を求めた時、神北君は沈黙を守って先輩の指図について何も語りませんでした。 先輩の回さんへの個人的嫉妬が理由でその腹いせのためにお先棒を担がされた神北君ですが、神北君にも非があります。 それは問い詰めません。 神北君も先輩への義理立てがあるでしょうから、ここは先輩から何か言ってあげて下さい。」

顔回(がんかい)曰く、「新参者の神北君としては、先輩の命令は断れないですよ! それはパワーハラスメントですよ! 神北君も気の毒です。」

子路曰く、「神北! まだ入門したばかりのお前に、俺の不平不満の感情を満たすために利用したことを深く詫びる!(子路、神北に向かって土下座する。) これこのとおりだ。 申し訳なかった。 あいすまぬ!」

神北曰く、「先輩、面(おもて)を上げて下さい! 私も回先輩に何の怨みも遺恨もありません。 ただ指図されたままに動いたのは本当のことです! 実は私は孔門の弟子の一人になりたくって計画的に子路先輩に近づいたのも本当のことです。 先輩だけが悪いんじゃないです。 ただ回さんは立派な方です。 回さんの勤勉家で実直な振る舞いを見ていて、自分が万物の霊長たる人間として恥ずべきことをしていると心苦しくて気咎めを感じていたんです。」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月13日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート233

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート233」だ。

諸君、昨日のひきつづきであります。
子路(しろ)、子貢(しこう)の諫言(かんげん)にうなずくも無言。

子貢曰く、「孔子先生は後輩弟子の宰我(さいが)君に厳しく戒(いまし)めておられながらも『既往(きおう)は咎(とが)めず。』と言っておられました。 子路先輩もご存知のはずです。 過去の出来ごとについてあれこれと重箱の隅を突っつくように咎めだてするより、深く反省し、今を改め、同じ事を二度と繰り返さないよう心と身を慎むことが大切であると言っておられます。 私も回さんも先輩や神北君を決して咎めだてしているのではありません。 これからもずっと同門の敬愛する先輩に何ら変わりはないのですから・・・ 回さんもそう思いませんか?」

顔回(がんかい)曰く、「もちろんです。 先輩に対する敬愛の気持ちに対しては、いささかも変わりはありませぬ!」

子路たまりかねて曰く、「回! すまぬ! すまなかった。 孔門の弟子として恥ずべきことをした。」

子路は回の前に居住まいを正して座り、いきなり土下座をした。

子路土下座をして曰く、「これこの通りだ。 俺のした振る舞いを許してくれ!」


顔回曰く、「先輩、面(おもて)を上げて下さい! 許すも許さぬもありませんよ。 年は離れていますが、いつも変わらぬ実の兄弟のような弟思いの兄貴でいて下さいませんか?」

子路曰く、「おうよ! お前らは、この勇気凛凛の子路様がが守ってくれるわ!」

顔回曰く、「あっ、いつもの先輩にもどりましたね。」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月12日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート232

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート232」だ。

諸君、話を戻すことにする。
子貢(しこう)の「一つはっきりさせなきゃならない事がある!」の続きであります。

顔回(がんかい)曰く、「子貢君! 急に真剣な顔してどうしたんですか?」

子貢曰く、「回(かい)さん、ここへ来た第一の動機ですよ! ここで四人で会ったことで、はっきりさせたいことがあるんじゃないですか?」

顔回曰く、「はい、そうでした。 子路少年の林間学校の話に夢中になって、肝心なことを忘れてました。」

子貢曰く、「回さん、ここで子路(しろ)先輩と神北(かんぺき)君を前にして、言った言わないはお互い無しにしてはっきりさせましょうよ!」

顔回曰く、「はい!」

子貢曰く、「先輩! 神北君! いちいち改めて私の方から事のいきさつを説明するまでもないでしょう! 先生に用を言いつけられて留守をしている間に、回さんに対するお二人の振る舞いです! 回さんが挨拶しても他の門下生も挨拶せず無視するありさま! これは先輩の差し金で、『顔回を無視するように』と神北君が門人に言いふらしていたそうですね! 何のことかご存じのはずです。 ご自身の胸に手を当てて良心に問うてみればすぐわかることです。」

子路曰く、「俺は神北にそこまでせよ!とは指図していない。」

神北曰く、うなだれて沈黙。

子貢曰く、「先輩、お互い孔子先生の弟子です! 良心の呵責(かしゃく)を感じていたんでしょう? 『回よ! 俺が仕組んだことだ! すまない! 許してくれ!』と正直に回さんに謝ってまた兄弟弟子として仲睦まじくしましょうよ。 兄貴ぃ~! ゲロすれば楽になりますよ!」

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月11日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート231

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート231」だ。

昨日の引き続きであります。

 心を健全に活かすには、いかなる場合にも、心に積極的な態度をしっかりと持たねばならない。そうして初めて、生命の源泉を確保したことになる。形ある肉体も、自ら、その力に導かれ、当然健全なものになるのである。
 この真理を厳かに考えれば、たとえ、現在の体力が不完全であろうとも、病があろうとも、心配することも、悲観することもない。自分の心さえ、積極的に健全にさえすれば、その肉体は自然に強健なものに作りかえられる。そしてそのことが、宇宙真理であるということに気づかねばならない。
 心を積極的にする要点は何かというと、勇気の煥発だ! だから、すべからく何事に対しても、またいかなるときといえども、勇気、勇気で対応しなければならない。
 力の暗示誦句を唱うときでも、体のどこかに穴が空いているのじやないかと思うようなのがときどきいるが、勇気の抜けているのは力の誦句にならない。私は、勇気ひとすじな人間が大好きなのだ。女でも、男でも、勇気のない人間は、いざというときに話相手にならない。ちょっと一緒に往来を歩いていても、勇気のない人間というものは、戦々恐々と、びくびくして歩いている。
 まこと、人生修養の最彼岸点は、いつも勇気の溌剌たるものがなければいけない。
 勇気溌剌たるものとはどんなものか。
 わかりやすくいえば、どんな場合にも、虚心平気の状態でいるのが、溌刺たる勇気の状態なのだ。勇気を常に心から落さない心がけで人生を活きると、人生何事に直面した場合でも、虚心平気の状態で、それに応接することが出来るようになるのである。つまり、勇気というものが、虚心平気という大境涯に入る経路なのである。ところが、たいていの人は、この簡単な道理に目覚めていないので、ものごとを怖れるとか、不安になるとか、神経過敏とかということが、心を消極的にする原因のように考えているが、それらは原因でなく結果なのである。尻と頭を間違えている。原因は勇気が欠けているからで、勇気が欠けているから、消極的な心や気持ちが起こってくるのである。
 以前話したことがあるが、平炭坑のストライキ調停のため、私が単身で炭坑の現地に赴いた。それまで陸軍の大迫(おおさこ)将軍や、日蓮宗の田中智学らが調停に行っても鉄砲を撃ちかけられて渡ることすら出来なかった炭坑の入口の橋を、警官が止めるのも聞かず、平気で渡っていったのも、この勇気が煥発されたからこそなのである。
 女房や娘を売ってまでも、炭坑に立て龍って、長い間、経営者と戦い続けている悲惨な労働者を救おうとしてやって来た自分に、弾丸なんか当ってたまるか、いや、当るはずがない。
 この勇気が煥発されて虚心平気な気持ちになれたのである。だから橋に一歩足をかけた途端、パンパンと撃ちかけてきたが、平気でドンドン渡って行った。そして、橋を渡った後に気が付いたのであるが、身につけていた外套を六発の弾丸が打ち抜いていた。けれど身にはまったく、かすり傷一つ受けなかったのである。
 だから、勇気さえ心から失わなければ、何事もこの世に怖るるものはないのである。
 昔の諺にも、
    勇気は常に勝利をもたらし
    恐怖は常に敗北を招く
 というのがある。
   断じて行なえば、鬼神もこれを避く
   陽気の発するところ 金石もまた透る
 である。
 だから、人間の心から勇気がなくなると哀れなものである。万物の霊長なんて名ばかりになってしまう。四六時中不当にやすらかな気持ちで人生を活きることが出来ない。
 何か「事」があるとすぐに心の調和を失い、心の平和がかき乱される。
 だから、理屈は抜きにして“たとえ、どんなことがあっても、断然、勇気を失うことなかれ″これがモットーなのである。
 そうなるには、観念要素の更改を真剣に実行するとともに、普段から、出来るだけ勇気凛々たる人間と交際するように心がけることである。
 前にもいったとおり、この世の中や人生には、滅多矢鱈(やたら)に恐ろしいということはありはしない。怖ろしいと思っているのは、自分の心なのである。
 今まで活きて来た過去を考えてみなさい。のべつそんなに怖ろしいことがあったか、なかったか。
 生まれつき神経過敏な人間はいないといっただろう。生まれたときには白紙のごとし。
 それが、いまのような状態になったのはなぜかというと、自分自身で生まれたときに持ってきた勇気というものを影を薄くしてしまっているからだ。なくなっているのではない。その上に消極的な弱い心が蓋(ふた)をしているからなのである。
 日本人であることを忘れるな!
 世界で二つとない富士山をもっている日本国民、燎乱三千年の歴史の中に燦(さん)として輝いていた、日本人の勇気がいかに豊富であったか。それが、太平洋戦争で、滅茶滅茶に醜くなり、たとえ一時的であろうとも勝を向うへやった。これは、当時の人間が、大言壮語しても、真の勇気が欠けていたからだ。
 今夜から寝ぎわの観念要素の更改には、毎日毎日こうして、魂に手ごたえを与えている真理の瞑想によって開けた悟りのうち、どれでも良いから、寝がけの観念要素の更改の場合の魂を綺麗に研ぎ上げる手段に使いなさい。それには、誦句集のどの章でもいいから、開けて読みなさい!
 読むだけでも非常に寝ぎわのときの気持ちの掃除が出来る。ただ、眠いからといって、フーッと寝るよりは、この誦句集のどのページでもいいから開いて、一章だけでいいから誦えなさい! 二つも三つも重ねていう必要はない。そして、そのままの気持ちになる。信念のところを唱えたら信念の気持ち。勇気のところを唱えたら勇気の気持ちになって、「夢むらさきと豊けくけむれ」ばいいのだ。
 そして、本当にけなげな勇気ある自分を作りなさい!

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月10日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート230

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート230」だ。

昨日の引き続きであります。

 それから、中には、人に忠告したり勧告したりするとき、その忠告や勧告に応じてくれないと、やたらと胸くそを悪くする人かある。これも滑稽千万である。第一、無理な注文である。あなたのその言葉に応じるか応じないかは、向うの勝手だ。人の意思は自由だから、こっちで干渉する権利はない。
 もっと滑稽な人間になると、人に親切にしてやって、相手がその親切に感じないと、盛んに怒っている者がいる。
「何よ! あの人、恩知らず!」なんて……。
 それからまた、愚にもつかないこういう人間もいる。
 自分の仕事などが、うまく思うとおりにいかないと、とっても、がっかりして、へこたれて、意気消沈してしまう。箸一つ切れなかったり、竹一つ切れなかったりすると、一日中意気消沈しているような間抜けもいる。
 ただ、往生のときを早めるだけじやないか。この世の精算を早めるだけじやないか。他に、何の効果も来やしない。人生は主観だ! 心一つのおきどころだ!
 いったいなぜ人間はこういうようなんだろうかということを考えてみよう。
 たとえば、病のときなんか、「なにくそ! こんな病に負けてたまるか」と考えればいいんだけれど、考えられないのはなぜか、ということを考えてみよう。
 自分の仕事だからこそ、「これが心配せずにいられるか。これが悲観せずにいられるか……」と。しかし原因は何と、極めて簡単なところにあるのだ。どういうところにあるかというと、結論的にずばり言えば “勇気” がないからなのだ。否! 勇気が欠けているからだ。勇気はあるのに、出し方がわからないから、人生を活きる際に、非常に勇気が足りないものが出てくるのだ。
 勇気が落ちたら、いくら積極的にしようと思っても、“いざ、さらば” というときに積極的にならない。普段の習慣が大事なのである。勇気というものは、人生を統一する一切の根本基礎なのだ。
 繰り返していうが、人間の生命の本体というものは、形ある肉体ではない。ちょっと考えると、形のある肉体であるかのごとく見えるが、実は形の見えない気の中にあるのである。
 ちょうど、扇風機は、扇風機のモーターの力で回っているのではない、扇風機を回している力の元は、エレクトロンとプロトンという “気” である。
 よく考えてみれば、すぐ解ることだけれども、頑健な肉体を持たず、見るからに弱々しい体であっても、相当に長生きをし、世の中のために仕事をなしている人が、昔から随分といる。イマヌエル・カントや、ヘレン・ケラーや平田篤胤(あつたね)、貝原益軒というような人は、その代表的な人達だ。もちろん、肉体が強いに越したことはないけれども、いかに肉体が発達しても、それはただ単に、生命の物質的方面のみの発達だ。心の方面が積極でないかぎり、理想通りの最高の生命の発達は出来ない。
 というのは、いまいったとおり、人間の生命の本体は、精神生命の根元である無形の霊という “気” であるからである。
 今の話のとおり、いかに立派な扇風機を拵(こしら)えてみたところで、モーターの中のコイルの捲き方が不完全であったら、充分にこの気を受け入れることが出来ない。形だけは立派でも少しも回らない。だから、完全に、生命を活かす計画の成就は、生命の本体たる霊という気を、完全なる姿で、この生命を確保しなければいけない。
 その第一の先決問題は何か!
 それは、心を健全に活かすことである。

この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月9日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート229

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート229」だ。

昨日の引き続きであります。

 心配や悲観をする癖がつくと、悪い習慣だけど何を考えるときでも、やたらと取越苦労をする。取越苦労をすると、物事をやたらと消極的におおぎょうに考える。あれがああなってこうなって、こうなってああなって、ああペシャンコだ、というようにね。
 人間は、この良くない癖と、伝統的に、慣習的に付き合っているといっても過言ではない。重大に考えなければならないことは、心配したり悲観したりする習慣を、習慣とも気づかず、悪い癖とも反省しないで、人間共通の通有性というように、間違えてますますやっていると、人生の光明をどんどん闇にする哀れな気分だけが、人生を支配するようになってしまう。
 ただ、それだけでも下らない惨めな人生なのに、そういう心配や悲観をしていると、その心配や悲観したことが、なんと現実の事実となって、人生を惨めな状態にしてしまうのである。なぜかというと、悲観したり心配したりすると、その心配や悲観が、人生に苦い形で現実の姿を現わしてくるように、宇宙真理が出来ているからである。
 これは絶対の真理である。これは自然の法則なのである。
 だからかりそめにも、生まれ甲斐があり、生き甲斐のある人生を活きようと欲するならば、何よりも一番戒めなければならない大切なことは、心配や悲観、これは断然、禁物だと思わねばならないのだ。
 もう、何回もいっているとおり、この大宇宙の中には精気というものがあって、その精気の中には、積極の気と消極の気とが入り混って、遍満している。その気が人間の心の中の気分と常に同化的に働いている。積極的なことを考えればプラス(正)の気が入ってくるし、消極的の気分になればマイナス(負)の気が入ってくる。
 我々は、千万の理論よりも、一つの事実を厳かに考えねばならない。真理というものは、事情や情実で左右はされない。まして病や運命に対して、もっとより良い結果を望むのならばなおさら、一段と心配や悲観というものは絶対に無意味だと考えねばならない。否、無意味というより破壊に終わるのだ。
 もう何遍もいっているとおり、宇宙の根本主体である、神仏と称せられるものの心の中には、“真” “善” “美” 以外に心配や悲観というような心持ちは夢にもない。その神の心と通じている心を持つあなたがたが、この自覚を明瞭にしなければならない。そのことが明瞭になれば、下らないものを心配したり、悲観したりする必要は、さらになくなってしまうものだ。
 人間というものは、人間である以上、人間としての面目を発揮しないと、人間としての面汚しを自分でしているようなものである。人間は人間らしくあるときにのみ、人間の恵まれた幸福というものが与えられる。だから、もっと神の心や仏の力に近寄りたかったら、心配や悲観を断然しないようにしなくてはならない。
 よく考えてみよう。人生には特に病が生じたり、運命が悪くなったときは、ひとしおその生命の力をより強くする必要があるときなのである。何でもないときは、さもあらばあれ、病や運命が悪くなったときには、そのときこそ、生命を守る戦いを開始しなければならないのだ。そのときに、戦いに勝つものは、力なのだ。しかも、その力を強くするには何を措いても、第一に心を積極的にしなければいけないのだ。それを、悲観したり心配したりして、心を消極的にして、なおかつ、より価値高く活きようとする考え方は、火種なしに炭から火を熾(おこ)そうとするのと同じである。
 もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで、自分の心が影響され、あるいは同情して、自分まで心配して不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。
 “同情” という気分は尊いが、自分というものを、これと同様の消極的な気分にして、自分の生命まで腐らしてしまわねばならぬ、いささかの義務も責任もないはずだ。消極的な他人の気分にまで、同化的環境を造る必要はない。


この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年9月8日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート228

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート228」だ。

諸君、子路(しろ)少年の勇気は、やはり心の態度が積極的であったのは間違いないね!
何事に遭遇しても恐れたりしなかった。
生前に勇気について述べたことがある。
「運命を拓く―天風瞑想録」の「第十一章 勇気と不幸福撃退」というタイトルテーマのところです。 
大切なことなので全文を掲載することにする。
諸君等の参考にしてほしい。




 今日は人生を完全に活きるのに必要な各種の要項の中で、特に必要なことを悟ることにしよう。
 それは何かというと、第一に必要なことは、何事にもやたらに悲観したり心配したりして、すべてのことを消極的に思ったり考えたりすることを止めることである。
 今まで、常日頃、あなたがたが当り前のように思ったり考えていた心配や悲観、それが決して当り前ではないということを悟ることにしよう。
 あなたがたが、病なり運命なりに冒されると、やにわに、それを心配したり悲観したりする。そして、そうすることが当り前の人間のように思っている。常識のある人間なら、そうあるのが当然だと思っている。そして、その理由というのは、実に第二義的なことを麗々しく並べたてる。〝自分も含め周囲のすべてがそうであるから”というのである。ところが、真理の上から正しく論断するなら、大変な間違いなのである。間違いを行なっている人が多いからといって、その数で是非善悪を決定するということは、実に無鉄砲な乱暴な決定ではないだろうか。
 考えてみよう、人聞か病や不運に冒されたとき、それを心配したり悲観したりするのが、真理だとしたら、人間なんて値打ちが少しもなく、人間ほど惨めなものはないと思わないだろうか。
 心配したり悲観したりするとき、人生が明るく感じられるか、あるいは暗く感じられるか、すぐ解ることだ。何ともいえぬ楽しみで心配や悲観の気持ち、心持ちを、もっている人があったら、そんな人は、人間が万物の霊長としてこの世に生まれてきた理由を考えないからである。万物の霊長として生まれてきた理由を考えるなら、心配したり悲観したりすることが寸法違いだということをすぐ悟れるわけである。
 考えてみよう。人間はこの世に悩むために来たのではないだろう。心配するために来たんではなかろう。悲観するために来たのではないだろう。つまり、一生を暗く生きるために来たのでは断じてない。まこと尊きかな、人間は進化と向上という偉大な尊厳な宇宙法則を現実化するために、この世に生まれてきたのである。
 このような見地に立脚して、人間というものを厳かに考えるなら、まったく、悲観や心配という心持ちが人間の共通性だという決定は、最初からまったく、とんでもない誤りから出発した結論ではないだろうか。しかるに、この間違いを正しく悟ることができず、病だから心配するのが当り前で、不運だから悲観するのが当然だというように、少しも間違いのない真理のように考えるのなら、そういう人は、こういうことを考えてごらん。いや、そうしたことが、五十歩百歩譲って、正しい真理であるとしたならば、病に罹(かか)って心配した者が早く治り、不運に遭って悲観した者がたちまち幸運に運命を転換しているはずである。ところが事実は全然それと反対ではないか。
 病のとき、心配すればするほど回復は遅い。私は死亡広告を新聞で見るたびに、この人は、本当の病で死んだのだろうかと考えてしまう。否、寿命で死んだのなら、さもあらばあれ、たいていは自殺じゃないのだろうか。自殺といっても、なにも青酸カリやブロバリンを大量に飲んで死ぬのばかりが自殺ではない。病に罹ったときに神経を過敏にして、ああでもないこうでもないと、心配を重ねて、活きる力を自分で衰えさせて死んだのも自殺なのだ。私はそういう者が多いのではないか、といつも思う。
 また不運のとき、悲観すればするほど、よりいっそうよくない事実が現実にくる、という、侵すべからざる事実があるのを何とするか。いかに屁理屈を付けてみても、この厳然たる事実を曲げたり、否定したりすることは出来ないだろう。
 しかるに、この真理に正しく目覚めないで、やたらと何でも、人生のことを心配したり悲観したりするのを人類の通有性と見るのは、随分飛び離れた、“あわてもの”といわねばならない。そういうのも結局、生命に関する宇宙の法則や、心の持つ生命への偉大な働きかけ、というものに無自覚であるからだ。そして、その無自覚から、そういう“癖”を知らず知らずの間に心につけてしまっているからだ。習慣は第二の天性というが、まことに怖るべきことではある。


この続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月7日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート227

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート227」だ。

昨日の引き続きであります。

子路(しろ) 曰く、「おい、子貢(しこう)、俺はモデルじゃないんだ。 写真を撮られるばかりで自分で見なければ面白くも何ともねえじゃないか。」

神北(かんぺき)曰く、「それより、先輩が手にとったら、いつも何か写っているんですよね。今回は何が写るか、そっちの方が興味ありますよ!」

子貢曰く、「そうですよ! 話をずいぶん引っぱった割に、結局これからここで記念撮影して、さて何が写っているかその方が楽しみですよ!」

顔回(がんかい)曰く、「心霊写真になってしまうきっかけは、やはり、さゆりさん達に会ってからのことですよね!」

子路曰く、「多分それからだと思う。」

顔回曰く、「それなら原因がわかるじゃないですか。 勇気ある少年を誇りに思って、はたまた感謝しつつ同じ仲間として認めての記念撮影に入ってきたのでしょう。 さゆりさんや親父グモだけじゃなく他の心霊や精霊も先輩のことが好きなんですよ! 好かれているんですから写真嫌いになることないじゃないですか?」

神北曰く、「後輩の分際で話の腰を折るようで申し訳ないですが、孔子先生の講義を受けたいので皆さんさっさと記念撮影して帰りませんか?」

子貢曰く、「神北、ちょっと待ってくれ! 一つはっきりさせなきゃならないことがある!」


この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月6日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート226

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート226」だ。

昨日の引き続きであります。

子路(しろ) 曰く、『おじさん、さゆりは学校と子供たちを守ろうとしているんですよ! その手伝いが出来るんだから、それは誇りに思ったらいいですよ! 用務員の誇りですよ!』

案内人曰く、『用務員の誇り!! 子供なのにいいこと言うね! ますます気に入ったよ!』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

子路曰く、「どうやら用務員のおじさんと親父グモはスチーブンソン作の小説の主人公であるジキル博士とハイド氏のようにセットであることは間違いない。 それから一緒に記念撮影をした。 おじさんは俺の隣に立っていた。 後日、夏休みが終わって、学校で先生から写真を渡されたんだ。 その写真を見たとき隣のおじさんが消えていて親父グモが代わりに写っていたんだ。 おまけに親父グモの頭の上にさゆりが写っていた。 友達の回りにも、この小学校の子供たちが重なり合うように写っていた。 俺が写真嫌いになったのは、俺の写真にだけ写っているということだ。 同じ写真が配られたのに、俺に渡された写真だけに奇怪なものが写っている。 つまり俺が写っている写真を俺が手に持って見ると心霊写真になっちまうんだ。」

子貢(しこう)曰く、「話をずいぶん引っ張った割には落ちがつまらないですね! それは写真を撮られるのが実は嫌いじゃない先輩が写真を手に持ってみることで問題が生じているわけですから、先輩は手にとって写真を見なければいいんですよ!」

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月5日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート225

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート225」だ。

昨日の引き続きであります。

神北(かんぺき)曰く、「そう言えば、アメリカ映画『スパイダーマン』にも主人公の青年がスーパーグモに刺されたため、熱に浮かされて、目が覚めると、超能力クモ人間になっていた。 と言う映画でしたが、顔も体も人間でしたね! 顔だけ親父で、たいした力も無しでは気の毒というものです!」

顔回(がんかい)曰く、「スパイダーマンは、スーパーヒーローです。 親父グモとは一緒に比較しないで下さい! 話の先をお願いします。」

子路(しろ)曰く、「案内人のおじさんは、懐中電灯をぶつけられた腹いせなのか、俺にへばりついて離れないんだ。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

案内人曰く、『子路君、その時の夢は、ここには、さゆりという学校童(わらし)がいて、この学校を陰で守っているんだ。 そのさゆりが、“お兄さん、このまま放っておけばクモの毒が全身に回って24時間以内に死んでしまうよ! まだ死にたくないでしょう? 必ず助けるから、この学校を守るためのお手伝いをしなさい!” と言われた夢なんだ。』

子路曰く、『それで、おじさんは夢の中でどうしたんだ。』

案内人曰く、『子路君、その当時は私も若くてハンサムなお兄さんでしたよ!』

子路曰く、『そりゃどうも。 お兄さん、失礼しました。』

案内人曰く、『俺はこの学校が好きだから用務員になった。 だから、この学校を守るためなら “はい、喜んで!” と即答した。 その返事をした途端、夢から覚めて、目を覚ましたらすっかり熱も下がり、俺は死なずに生きていることを実感したんだよ! それから、この学校の用務員室に泊まるたびに、夢を見るんだ。 さゆりが “学校のトイレが汚い! もっときれいに掃除させろ!”、“ 村の○○ちゃんがひどい風邪だ、山の中の薬草をとって持って行きなさい!” とか、ことあるにつけ命令するんですよ! “明日はお休みだから出来ない” と言うと、“約束守らないとクモになっちゃうよ!” と脅すんですよ!』

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月4日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート224

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート224」だ。

昨日の引き続きであります。

子路(しろ)曰く、「俺は案内人のおじさんの顔をそのときまざまざと見たんだ。 それで、ハッとした。 そのおじさんの顔は、あの時の親父グモの顔に瓜二つ、そっくりなんだ。 それに何故、このおじさんは親父グモのことを知っているんだ。 おじさんは絆創膏を『ここを見ろ』と言わんばかりに剥(は)がしたんだ。 その傷は、三日月の格好をしている切り傷であった。」

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子路曰く、『おじさん、その傷は俺が投げた懐中電灯で切ったと言いましたが、俺はおじさん目がけて投げたおぼえなんかないよ。 顔はおじさんにそっくりで、体全身クモのような毛で覆われた見たこともない化け物に投げたんだ!』

案内人曰く、『教室内の見回り中に、いきなり懐中電灯が飛んできたんですよ。 まだズキズキして頭が痛いです。』

子路曰く、『おじさんはどうして親父グモのことを知っているんだよ。』

案内人曰く、『おじさんはこの小学校の卒業生でね。 大人になってからここの用務員になったんだ。 今はこの廃校の管理を任されているんだよ。 おじさんがこの小学校の用務員になりたてのころ夜間に教室を見回っているときに、廊下の床に毛むくじゃらの大きなクモがいたんだ。 暗かったので誤って踏みつぶすところだったが、このクモは動かないんだ。 おじさんは、子供のころから虫でも何でも謂(い)われなく殺すのが嫌だから、手にとって逃がしてやろうとしたんだ。 その時にクモが毒グモだったのか、指を刺されたんだ。 夜のクモは縁起が悪いというが、それから三日三晩高熱が出て浮かされながら不思議な夢を見たんだ。』

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月3日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート223

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート223」だ。

昨日の引き続きであります。

子貢(しこう)曰く、「世にも不思議な物語ですねぇ~。」

子路(しろ)曰く、「物語じゃねえやい! 俺にとってはノンフィクションだ。 人は本当らしい嘘は信じるが、嘘らしい本当は信じねえものだ。 オレオレ詐欺にはひっかかるが、当の正真の本人のほうが親の所へ電話をかけたら、『あなたが何方(どなた)か知りませんが、息子の声色を真似るの上手ねぇ!!  オレオレ詐欺なんか仕事にしないで、その才能を活かして俳優になるか、他の真っ当な仕事に付きなさい!』なんて逆に説教たれられるようなもんだ。」

顔回(がんかい)曰く、「わかるようでわかりにくい、屁理屈のような話ですね。 まぁ、それだけ人身の心が、疑心暗鬼(ぎしんあんき)になっていると言うことですかね。 ではその先をお願いします。」

子路曰く、「林間学校に来ている間、校庭のすみっこで飯ごうでご飯を炊いて、大なべでお決まりのカレーを作ったりして食べた。 最後の晩は、皆で歌ったり踊ったり、これもお決まりのキャンプファイアで盛り上がったなぁ。 そして帰る日になって、校舎の前の二宮尊徳翁の前で、記念撮影をすることになり、俺は小6の割に大人顔負けの体であったので、向かって左の(二宮)金次郎側の後ろの位置になった。 その時、道案内してくれたおじさんも来ていて、記念撮影に加わってくれることになったんだが、そのおじさんの顔をその時よくよく見ると、額(ひたい)の真中に大判の絆創膏を貼っていたんだ。 『どこかで見た見覚えのある顔だなぁ』と思ったが、なかなか思い出せない。 すると案内人のおじさんはニッコリ笑って俺の耳元でおかしなことを言うんだ。 『子路君、君、親父グモに会ったでしょう! 君に投げつけられた懐中電灯で額が切れて、三日月の傷が残っちゃったんだよね! “天下御免の向こう傷” だ。』と言いながら絆創膏をはがしたんだ。」

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月2日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート222

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート222」だ。

昨日の引き続きであります。

子路(しろ)曰く、「村長さんと助役さんの働きで校舎は村営の歴史記念館として残ることになって、『めでたし、めでたし』と一件落着になった。 しかし、俺は人質になった玄徳(げんとく)や友達や引率の先生に聞いたんだが、誰もが『人質になった覚えがない』と口を揃えて言うんだ。 トイレに行った俺と甥陽明(おいようめい)がいつまでたっても帰ってこないんで、引率の先生と案内人のおじさんと一緒に校舎の周りを探しに行ったが見つからず、『単独行動をするいつもの腕白大将の子路のことだから、陽明とここら辺の山を冒険に行っているんだろう。 腹がへったら必ず帰ってくるだろうから』とそれ以上探しはしなかったんだ。 友達も気にも留めずに歌を歌ったり、ゲームしたりと楽しく過ごしていたそうだ。 親父グモの糸にぐるぐる巻きにされた玄徳ちゃんだが、本人は『親父グモなんかいっぺんも見てはいない。』と言うんだ。 ではあの俺が見た蜘蛛の糸に巻かれた玄徳の姿は何だったんだろうか? 唯一、さゆりや親父グモの話ができたのは陽明だけだった。 陽明は気絶したままだったが、意識が戻ってみるとガランとした教室にいた。 『目が覚めた後、不思議な夢を見たとほっぺたをつねってみると痛かったが、何かリアルな夢で、きつねにつままれた不思議な感覚だ。』と言っていた。 『ただ子路ちゃんがいないので心配していたんだ。』と言うんだ。」

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年9月1日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート221

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート221」だ。

昨日の引き続きであります。

子貢(しこう)曰く、「先輩、お話の腰を折るようですいませんが、さゆりちゃんは精霊でこの世のものじゃないですよね。 火をつけて校舎と共に死ぬことができるのですか?」

子路(しろ)曰く、「さゆりも切羽詰まっていたから、気持ちが空回りして思わず言ってしまったんだろうよ!」

顔回(がんかい)曰く、「 “さゆり” と気安く呼び捨てに出来る関係って、なんかいいですね! その先の話をお願いします。」

子路曰く、「村長はしばらく沈黙していたが・・・」

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村長曰く、『人命には代えられません! 私が全ての責任を持ちます。 この校舎を残すことに同意します。 引き換えに職員を開放して下さい!』

さゆり曰く、『村長さんは私達の要求に同意していただけました。 助役さんはどうしますか?』

助役曰く、『私も人命には代えられません! 同意します。』

さゆり曰く、『では、お二人ともこの誓約書にサインして下さい! 言っときますがこの誓約を守らないと・・・』

村長曰く、『この誓約を守らないと、どうなるんですか?』

子路曰く、『さゆり、どうするんだ。』

さゆり曰く、『この誓約は聖なる誓いです。 この誓いを守らない時は、毎日化けてお仕置きするからね!』

村長曰く、『さゆりちゃんなら可愛いから化けて出てもかまいませんが、それとこれは別のことです。 私とさゆりさんのお互いの信義の問題です。 (誓約書にサインをして・・・)これでどうですか?』

さゆり曰く、『では、職員さんを解放することを誓約します。 私のサイン入りの誓約書を渡します。 ただし、子路ちゃんが林間学校にいる間は子路ちゃん達をお預かりするかたちになります。 決して人質ではなく、お客様として接待しますからご安心下さい!』

村長曰く、『わかりました。 その間に村民も含めて事情説明します!』

さゆり曰く、『では、これで手打ちで決まりですね!』

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年8月31日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート220

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート220」だ。

昨日の引き続きであります。

子路(しろ)曰く、「俺はさゆりに言った・・・」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

子路曰く、『俺の友達は皆大丈夫か?』

さゆり曰く、『大丈夫よ。 安心してちょうだい!』

村長曰く、『さゆりさん、あなたの申し出はわかるが、子路君の仲間をすぐに開放して欲しい! それからでないと私としては話し合いには応じられない。』

さゆり曰く、『村長さん、もうとっくに開放してますよ! 食事も終えてみんなで楽しく遊んでいます。 ここの様子を調べに来た役所の方に代わりに人質になっていただきました。』

村長曰く、『さゆりさん、職員は無事ですか?』

さゆり曰く、『無事です! それより村長さん、この校舎をこのまま村の管理でいつでも活用できるように残すことを約束して下さい! それが私達の要求です。』

村長曰く、『さゆりさん、私の一存では決められないのです。』

さゆり曰く、『あなたの村の職員の命がかかっていてもですか?』

村長曰く、『職員に罪はありません。 すぐ解放して下さい! このことは改めてここが村営の歴史記念館として残せるよう議会にかけてみます。 さゆりさん、私の政治生命をかけて議員を説得します。』

さゆり曰く、『村長さん、私には村議会の議員の心が見えます。 信用できません。 今ここで返事をいただけないのなら、この校舎が壊される前にあなたの職員を道連れに私の手で火をつけて校舎と共に果てる覚悟です。 村長は、今すぐ、はっきりした返答をして下さい!』

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年8月30日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート219

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)〜論語創作ものがたり パート219」だ。

昨日の引き続きであります。

子路(しろ)曰く、「村長が音楽教室の戸を開けようとする刹那、中からオルガンの音と子供たちの歌声が聞こえてきた。」

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助役曰く、『村長、この小学校の校歌ですよ‼』

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子路(しろ)曰く、「村長はうなずきながら黙って戸を開けた。 その中を見ると大勢の小学児童が教室の中に所狭しと重なり合いながら一生懸命校歌を歌っていた。」

顔回(がんかい)曰く、「それはいったいどういうことなのですか?」

子路曰く、「教室に入りきれない子供たちだ。 それも俺の友達じゃない。 後でさゆりに聞いたら、この小学校で学んだ全ての児童の面影のホログラムだと言うんだ。 村長と助役と俺は中に入ってその歌声をしばらく聞いていた。 その中に子供の頃の村長と助役の姿もあったらしく、その姿を見る二人の頬には大粒の涙が流れていたのを覚えている。 歌っている子供の中から一人の少女がまっすぐこちらへ向かって歩いて来た。 学校童(わらし)のさゆりであった。」

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さゆり曰く、『村長さん、助役さん、ようこそいらっしゃって下さいました。 学校童のさゆりです。 子路ちゃん、ごくろうさまでした。』

村長曰く、『子供の頃にここで校歌を歌った懐かしい記憶があります。 私と助役の姿もありましたが、この光景はいったい何でしょうか?』

さゆり曰く、『これは、ここの小学校に学んだ児童全員の面影です。 村長さんと助役さんの面影もあったでしょう。 この校舎にはここで学んだ全ての児童の面影が大切に保存されているんですよ。』

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風