2010年1月30日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート11

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート11」だ。

諸君、昨日の話に〈女(おんな)の腐ったよう〉と女性をあたかも蔑視しているかのような誤解を受ける不適切な言葉を使った。
すでに死語になりつつある現代であるが、女性差別用語だと言われる方もおられるだろうから、『その当時の世相は』ということで御理解をたまわりたい。
今時の日本では、「草食男子」「肉食女子」とか言われているそうですな。
〈女の腐ったよう〉とは、今時の世相に合わせれば、〈男の腐ったよう〉と改めるべきですかな。
その意味では、ぐずぐず言って男の腐ったような態度のにえきらない、はっきりしない女をののしっていう言葉になるね。
これが今時は正解ですかな?
諸君はどう思われますかな?


さてもさても「子路(しろ)の嫉妬劇」のはじまり、はじまり~!

「門人諸君、大先輩の子路であります。 諸君らにお話がありますから、すぐに中庭に全員集合してくれたまえ。」

門人を中庭に集めて子路曰く、「孔子門人諸君、日頃、諸君らは、孔子先生について寝食を忘れてよくお勉強して頑張っておられるから、今日は子路先輩が、孔子先生にかわり、君たちにごほうびとしてごちそうするから、本日のPM7:00に居酒屋『ざ・論民(ろんたみ)』に集合されたし! 諸君、よろしいか?
それと、 顔回(がんかい―回)と子貢(しこう)は先生のお供で外出しているので、伝えなくていいから。 俺の方から話はしてあるので、余計なことは気をまわさないでくれたまえ! 諸君、よろしいか?」

「イエッサー 子路先輩!」 「はい、子路先輩!」

舞台は変わりまして、居酒屋「ざ・論民(ろんたみ)」。
時間はちょうど定刻のPM7:00。

居酒屋「ざ・論民(ろんたみ)」の店先で子路曰く「なになに『孔門御一行様 貸切御礼』 何だこれ? 水戸の黄門様一行じゃあるまいし、こんなたれ幕、店の前に下げんなよ。」

居酒屋「ざ・論民(ろんたみ)」の店内において子路曰く「おいおい、タダ酒、タダ食いとなるとずいぶん早くから集まるもんだね! 『衣食足りて礼節を知る』とは本当のことだな。」

乾杯を前にして子路曰く「諸君! 本日は、お忙しい中、よく集まってくれました。 ありがとう。 諸君の日頃の労をねぎらうためのものでありますから、先輩後輩の関係はおたがい抜きにして、本日は無礼講です。 孔子先生の門人として、この一時(ひととき)を楽しくやりましょう。 では諸君、孔子先生、諸君のますますの発展とご健勝を祈念しまして乾杯!!」 

「かんぱ~い!!」

この物語の続きは明日また・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月29日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート10

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート10」だ。

子路(しろ)激怒して曰く・・・
「なに~い、お前と先生とそんな話をしていたのか? 実にけしからん! 実におもしろくない! 実に不愉快である! 顔回(がんかい―回)も子貢(しこう)おまえも、先生も、俺だけのけものにしていたんだな!」

「子路にいさん、それは誤解だよ。」

「うるせ~、6階も7階も8階も地下1階もあるんだ。 おまえなんぞに『にいさん』なんて言われる筋合いはないわい!」

「子路にいさん、それはないよ! ああ~いや、子路大先輩が『血のつながりはないが、これからは、にいさん、おとうとよの間柄でいこうぜ。』って言ったんじゃないですか?」

「俺がかぁ~? いつそんなことを言った。 それこそ誤解ってもんだ。 もし言ったとしたら、今すぐやめだ、やめだ、やめだ~い。」

「子路あにき、また、やきもちですか? それってまちがいなく男の嫉妬ですね!」

「このやろう、それ以上言うとただじゃおかねえぞお!」

「おっと、子路あにき、そうそうにはこの子貢、油断しませんよ! 子路大先輩また嫉妬しているんですかぁ~。 孔子先生に直接真意を伺ってみてはどうですか?」

「うるせ! うるせ! うるせ~い!」

「先輩、それって世間では〈女(おんな)の腐ったよう〉って言うらしいですよ。」

「お前、少しだまっていろ。 今、頭が混乱しているんだ。」

「それはちがうでしょ。 子路先輩のその状態は、怒り心頭に発しているんじゃないですか? ズバリ、嫉妬して腹を立てている。 そしておさまりがつかない。 そうでしょ?」

「そうだよ、そうだよ、そのとおりだよ。 この事は先生にも回にも誰にも言うなよ。 いいな、子貢」

「わかってますよ、先生にも回先輩にも誰にも言いませんよ!」

「きっとだな!」

「きっとですよ!」

「約束だぞ!」

「ええ、約束します!」

…………………

ここから舞台は別の場所に移りますぞ。
ここは子路行きつけの居酒屋「ざ・論民(ろんたみ)」で、うさ晴らしに一人で飲んでいる子路であります…

「え~、いまいましい。 子貢のやろうも俺様をばかにしくさって! 顔回と子貢に俺様をのけものにするとどんなことになるか思い知らせてやるわ! 今に見ておれ…」


諸君、この続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風
女(おんな)の腐ったよう―ぐずぐず言って態度のはっきりしない男をののしっていう言葉。

2010年1月28日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート9

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート9」だ。

諸君、諸君の中で、「論語」に興味のない方々は、話はおもしろくないですな!
ついていけてないかもしれないが、「論語」というお題目を、決まり切った一視点のみで見るのではなく、上下、左右あらゆる角度視点から取り上げてみると、人の価値観は千差万別(せんさばんべつ)であることがわかる。
そして、自己を写す浄玻璃(じょうはり)の鏡として、自身が、時を超えて、現代の「論語人間ドラマ」を、今時のトレンディードラマの主人公を演じていると決めて、役柄になりきってみると意外と自分の今まで見えなかった、自分の別の一面に気づくかもしれない。
こんな自分もあったんだと、老若男女かかわりなく、個人の素直な感情として新鮮な感慨とともに新しい自分を発見されるだろう。
「不思議新しき自己発見!」
どうでしょう? 楽しみだね!

諸君も御存知のことかもしれないが、孔子先生には次の四つの欠点が無かったと言われている。
①自我の主観だけで憶測すること。
②自分の考えを正当化して無理に押し通すこと。
③一つの判断のみに固執して、融通がきかぬこと。
④自分の立場や都合しか考えぬこと。

これは論語の中の子罕(しかん)偏にある。
「子、四を絶つ。 意なく、必なく、固なく、我なし。」である。
これが、孔子先生の人間としての長所であるんですよ。
これ総合して、何と言うかと言うと、孔子先生、理屈っぽいと受け取る方もいるであろうが、私こと天風と同じく、案外、素直な心の人だということですよ。
この素直さがとても大切だと私は正直に思いますよ。
この素直さの大切さってね。
自己の天命の天分の自分を知る端緒(たんしょ)になるからですよ。
端緒って言うのは、糸口。
つまりきっかけになるんですよ。
ここらへんがわかると、ほんとのこと、正しい霊道が拓かれて、正しい霊感が自ずと受け取れるんですがね・・・

明日は、「論語創作ものがたり」の続きです。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

浄玻璃(じょうはり)の鏡
―(仏)地獄の閻魔王庁にあって、亡者の生前のすべてのおこないを残りなく映し出すという鏡。

2010年1月27日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート8

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート8」だ。

諸君、子路(しろ)と子貢(しこう)は年の差が21歳離れているんだね。
昔でいえば親子ほど年の離れた義兄弟という関係だね。
孔子先生と子貢は31歳離れているらしいからもう親子だね。
顔回(がんかい―回)とは子貢がわずかに1歳年下なんだね。
子貢にとっては先輩でありながら互いにいい意味でライバル同士というわけだね。

子路曰く、「おいおい、それで孔子先生は何と返答したんだ!」

「先生の意外な返答にとても驚いたんです。 思いもしなかった言葉を聞いたんですよ。 とてもうれしかったんです。」と子貢は答えた。

「おい、子貢よ、一人で悦に入ってんじゃないよ。 もったいぶらないで先生は何と言ったんだよ~。 早く言えよ、言わないと、ただじゃおかねえぞ、このやろう!!」

「子路あに…… 息! 息!ができませんよ。 苦し~い!」

「わるいわるい、ちょっと腹が立ってな、力が入っちまった。」

「子路にいさん! 殺されるかと思いましたよ。 いきなり首をしめるんだから・・・むちゃしないで下さいよ。 兄弟同士じゃなかったんですか?」

「そうだったな、それで先生は何と言ったんだよ。」

「『子貢よ、うん、そのとおりだ。 実は私も、お前同様なのだよ。』 『え~、先生も私と同じでせいぜい一を聞いて二を知る程度だとおっしゃるんですか?』 『そうだ、そのとおりだ。 何も私が先生とはいえ、回(かい)より人間ができているということではないんだよ。』 『先生、そうなんですか。』 『そうだよ、子貢よ、だからこうして一緒に共に学んでいるんじゃないか。』 『先生ぇ~え。 ありがとうございます。』 思わずじ~んときて、うれしくて涙がとめどもなく流れたんですよ。 こらえきれなかったんですよ、子路にいさん!」

諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月26日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート7

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート7」だ。

諸君、孔子先生が子貢(しこう)と〈仁〉について問うた、その後の孔子先生のお話からだったね。
「『子貢よ、そうすることにより相手の考えが自ずと見えてくるんだよ! 見えてくるというのは、相手が何を欲しているのか、また、本音と立前、真心と二心等が見えてくる。 相手を知って、相手の望むものがわかれば、相手にこびへつらうことなく、ことさら迎合する必要はないが、無用の争いを避けることも出来うる。 子貢よ、〈仁〉の道とは、万物の霊長たる人間としての歩むべき誠と愛とその調和の道だ。 時代性の変遷(へんせん)とともに人間の価値観も移り変る。 然(さ)れど人の本質は変らぬ。 〈仁〉の道とは、人格の生長および形成に最も大切な徳行の道でもあるんだよ。 子貢よ、回(かい)はその徳の道に至りつつあり、かなっているんだよ。 私はそう感じている。 子貢よ、お前は、回と自分とを比べてみて、徳の道を行くにおいて、どちらが上だと思うかね。 どうだろうよ?』と孔子先生に問われたんですよ。」

「それでそれで、おとうとよ、おまえ、何と答えたんだよ。」

「『はい、先生、私などは回先輩には、とても及びもつきません。 彼は一を聞いて十を知る人です。』 『そうかい、では、子貢よ、おまえは率直に自己分析して、どの程度だと思っているかい?』 『はい、先生、私は回先輩と比べれば、せいぜい一を聞いて二を知る程度です。』と答えたんですよ。」

諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風
      
二心(にしん、ふたごころ)-①敵対したり謀反したりする心。 ②疑いの心

2010年1月25日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート6

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート6」だ。

「なあ、子貢(しこう)おとうとよ!!」


「なんですか、子路(しろ)にいさん。」

「おとうとよ!! おまえ実のところ孔子先生に何と言われたんだい!! この間、ずいぶんと落ち込んでいたじゃないか?」

「ああ、そのことですか? あれは、顔回(がんかい)先輩のことですよ。」

「顔回のことって何だよ?」

「孔子先生に問われたんですよ。」

「何をだよ? まどろこしいなぁ~、子貢、はっきり言っちまえよ!」

「にいさん、そう、むきにならないで下さいよ! 孔子先生と私、私と先生、二人で世間話をしていたんですよ。 先生が『子貢よ、〈仁〉について子貢の存念を述べてごらんなさい。』と言われたものですから、ここぞとばかりに、私のいつも心に思っている〈仁〉の心の在り方、考えを述べたんですよ。」

「ほ~、それでおとうとよ、おまえ何と言ったんだよ!」

「私、子貢の存念は政事を為す者としての立場からの〈仁〉であります。」

「なるほど、子貢よ、君は、為政者の立場としての立脚点に立ってということでの〈仁〉ということだね!」
「はい、そうです。 『本来の君子を目指しての為政者としての在り方の命題がテーマであります。』と先生に申し上げたんです。」

「それでそれで、おまえ孔子先生に何と言ったんだよ。」

「はい、人民を貧窮から救い、生活を安定させることができたら、どうでしょう、これこそ〈仁〉ではありませんか?」

「それで、先生は何と答えんたんだ?」

「子貢よ、そこまでいけば、それはもう〈仁〉どころではない! 堯(ぎょう)、舜(しゅん)でさえそれを成就できなくて悩んだんだ。 〈仁〉はこの世に生ある人としてなすべき尊い道でもあるんだ。 子貢のいうところの為政者の立場から見たならば、君子は自分の名誉を大切に思うなら、他人の名誉を重んずるべきだ。 天は人間をして創造の自由を本性において与えられているのが人間なんだ。 自分が自由でありたければ、まず他人の自由を重んずる。 こうして自分を常に為政者と限定することなく、本来の万物の霊長たる人間として、他者の立場として客観的において考察し、まず天より与えられた人間本来の自由性を認め、自分が認めてもらいたいのであれば、まず他人の自由性を重んじること。 こうして、自分を常に他人の立場に置いてみること。 子貢よ、それが〈仁〉の道なのだよ。 何故それが〈仁〉の道なのか? そうすることにより相手の考えが自ずと見えてくるんだよ!」

諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

為政者(いせいしゃ) ―政治を行う人。

2010年1月24日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート5

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート5」だ。

「なあ、子貢(しこう)よ、孔子先生だいたい言っていることがおかしいぜ。 『回(かい)を見習え、回を見習え』って言われても、顔回(がんかい)みたいなやつがこの世の中に何人いるんだよ。 だいたい〈一を聞いて十を知る〉ことができるのは、孔子先生か天風先生か、シャカかキリストか、カリアッパ大聖者か、石塊(いしころ)みたいに、そうそうごろごろころがっているものじゃないぜ。 やつはある意味〈玉(ぎょく)〉、天才だよ。 そんなやつ見習えったってなれるもんじゃないぜ。 いちいち回と比較されるんじゃ、アホらしくてやってられないぜ。 おまえ、孔子先生にこの前なんか言われたんだってな。 子貢よ、おまえなんて言われたんだよ。 俺は口がかたいから安心して正直にはいちまえよ!!」

「子路(しろ)先輩、お言葉ですが、先輩が一番信用できないんですが・・・」

「なにぃ! おまえ、何言ってんだ!! アホヌカセ!! 俺はこう見えても信用第一義が信条なんだ。」

「お言葉をかえすようですが、でも、そう言いながら、孔子先生と顔回に不平不満&嫉妬して、グチっているようでは、私のことを他の塾生にも必ず『子貢はグチってた』って言いふらしますよ。 お~こわい! あぶない!あぶない! くわばら!くわばら!」

「なに~い、俺は〈孔子先生、命!〉なんだ。 おまえ言って良いことと悪いことがあるんだぞ! そんな孔子先生に対して不平不満があるわけないだろうよ。 だいたいだな、俺は〈孔子先生、命!〉だからいいとしても、君子たるもの、塾生に対しては、皆、わけへだてなく平等に扱わなければ君子とは言えないじゃないかい? 子貢さんよ、貴殿はどう思われるかな?」

子貢答えて曰く「多少の矛盾もなくもないですが、そりゃそうだねえ。 子路先輩、たまにはいいこと言うじゃないですか! 見直しましたよ。」

「おいおい、『たまには』はないだろう! じゃあいつもは、バカなこと言ってるみてえじゃないかよ! まぁ~、そんなことはどうでもいいぜ。 おまえと俺との仲だよ、先輩後輩抜きにして、この際『子路にいさん、子貢おとうとよ』でいこうぜ!! どうだい!!」

「なんかピンとこないですが、子路にいさん、今後ともよろしくお願いします。」

「まかしておけ、子貢おとうとよ!!」

諸君、この「
論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月23日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート4

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート4」だ。

諸君、大勢門人がいると好き嫌い、妬(ねた) み、嫉(そね)み等、様々な感情がうずまくね。
「男も女も人間だものなあ!」
そう言いたくなる諸君もいやしませんかい?
そう言えば、相田みつお氏の言葉を借りて、言い訳にしている人、けっこう多いいね!
諸君も、何か都合が悪くなると「人間だもの」を言い訳にしていませんかな?
「だって人間だもの、嫉妬の一つや二つくらいしたってしょうがないじゃない。 それが人間だもの!」なんてね。
他人のトイレの中をのぞき見してるわけじゃないんだがね、何故か相田氏の名言集は、トイレの中にかけてあるのをちょくちょく見かけるんだがねぇ!
私の生前の言葉てぇのは、天風ファンの諸君はトイレにかけないねぇ?
何故だろうかな?
「意識的に肛門をしめて、同時に肩から力を抜いて、丹田に力を入れよ! クンバハ法 積極的に!」なんて書いてあったら、出るものも出にくいよなぁ・・・
あたり前だ、肛門しめてんだからね。

まぁー、男の嫉妬もあるということですな。
〈孔子様、命!〉の子路が、「回よ!回よ!」といって顔回ばかり可愛がるものだから、心中実に面白くない。

「俺なんか自慢じゃないが、先生のこと大好き、大!大!大好き!愛しているって思っているのに、先生に喜んでもらおうとすればするほど、『子路よ、お前は思慮にかける。 物事を慎重によくよく考えてから行動しなさい!』こればかりだよ。 『回は一を聞いたら十を知る。 子路よ、おまえも回を見習ってツメのあかでも煎じて飲みなさい。』じょうだんじゃないぜ! 『子路よ、お前の勇(ゆう)は、真の勇気ではないぞ。 おまえの勇気は思慮分別のない、浅はかな勇気だ。』 子路よ思慮がない―しゃれにもならないぜ。」

孔子先生が何を語っているかの真意がわからない、愚痴をこぼしてばかりの子路でありました。
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月22日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート3

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート3」だ。

孔子先生の直接の薫陶(くんとう)を受けれた門下生は大勢おられたであろう。
しかし、三千人もの孔門の弟子が、一箇所に寝食を共にしていたとは無理がある。
しかし、かなり大勢の者が、学んでいたことであろう。
であるからして、孔子先生の回りには、門人同士の中で、先輩、後輩の関係や、年功序列や、成績の順の序列、役割等の序列があったでありましょう。
ここでは、論語から学ぶ「男の嫉妬」の逸話創作物語であります。
タイトルは「男の嫉妬 一を聞いて十を知る! 百を聞いて一を知る」だ。
どうしてまあ、「嫉妬」という字は、女偏がダブルで合わさっているのかいね~?
男子は嫉妬しないのかいな?

「いつも上司に可愛がられて、あいつはいいなぁ~。 俺ときたらいつも怒鳴られたり、怒られてばかりいる。 上司ときたらあいつばかりほめて、身贔屓(みびいき)しやがって、その前で『君も彼を見習いたまえ』なんて言いやがる。 仕事じゃ俺の方が出来るのに、どうしてなんだい。 あいつは要領がいいものなぁ~。 しかし、上司とあいつの顔見るとほんとむかつくぜ!」

こんな心のつぶやき、過去においても、今現在においても、男性諸君は、なかったですかい?
これってひょっとして「やきもち」、これってひょっとして「男の嫉妬」ですかい?
もしこれ嫉妬であったら、嫉妬は女性特有のものではありませんな。
ということであれば、嫉妬も二通りつくらないと不公平でいけませんな。
男女平等です。
あえて、男(おとこ)偏をこしらえて、男二つで「男のしっと」と読む!
どうですかな?
え~え、私は中間! そうかい!そうかい!
男女中間なんだね。
半分半分なんだね。
男女どちらの気持ちもわかるから、それはそれで中立でよろしい!
そんな方は男半分、女半分にして書いてくれたまえ!
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月21日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート2

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート2」だ。

諸君、ここで最も重要な登場人物である回(かい)こと顔回(がんかい)と子路(しろ)こと季路(きろ)のプロフィールを紹介しておこう。

この回は、顔回(がんかい)という方のことだが、孔門十哲の第一番目にあげられる、孔子門下第一の優等生なんだ。
孔子が最もかわいがったと言われている。
若くして亡くなったものであるから、非常に孔子様は嘆かれたと言われている方だね。
孔子様は、自分亡き後、後継ぎにしようと考えておられた方のようだね。
孔子様にとっては頼りにしている期待の人物であったんだね。
もう一人ここで重要な登場人物がいるんだ。
子路といって孔門十哲の一人。
姓は仲、名は由、子路は字(あざな)。
勇を好んだとされている方だ。
孔子様にぞっこん惚れていたんだね。
孔子様のためなら、命の一つや二つや三つは捧げても惜しくない覚悟の献身的な方だったんだね。
そんな反面、かなりの乱暴者で、無鉄砲なやんちゃな性分だったようだね。
参考までに孔子門下の選りすぐりの十人をご紹介しよう。
「孔門の十哲」と言われる方々だ。
徳行に優れた顔淵(がんえん、顔回)、同じく閔子騫(びんしけん)、同じく冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、同じく仲弓(ちゅうきゅう)。
言語弁舌に優れた宰我(さいが)、同じく子貢。
政事に優れた冉有(ぜんゆう)、季路(きろ、子路)。
文学に優れた子游(しゆう)、同じく子夏(しか)の十人である。
その当時、孔子門下は三千人とも言われているらしいが、それ以上とも言われてもいる。
本当のところはわからないから、ここでは孔門三千人位の弟子がすでにいたという設定にしておこう。
その孔門三千の中の十人ですから、たいしたものだね。
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月20日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート1

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) ~論語創作ものがたり パート1」だ。

諸君、本日は「論語」について小難しいし、固い話をしてきたので、諸君も肩もこってきたであろう。
肩の力を抜いてリラックスして話を聞いて頂きたい!
よろしいであろうか?
「天風講釈師見て来たように言う」という言葉もあるかも。


孔子様と弟子の子貢(しこう)との会話のやりとりなんだね。
この子貢さんは孔子の弟子の中でも古参で、側近中の側近の方の一人だったんだろうね。
孔門十哲の一人にあげられているんです。
姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、子貢(しこう)は字(あざな)。
弁舌、政治力に優れ、斉が魯(ろ)を攻撃しようとした時、諸国を遊説し、これを救った。
また貨殖の才もあったと伝えられている。


せっかくだからキャストを決めようか!
ここでは天風が孔子先生の役、諸君が子貢役だと決めて、子貢 になりきって聞いて下されや!
題して「論語創作ものがたり」だ。
あと、ここで最も重要な登場人物がある。
回(かい)こと顔回(がんかい)と子路(しろ)こと季路(きろ)である。

これは第五編公冶長(こうやちょう)に出てくる有名な問答なんだ。
諸君も御存知であろう。

「子、子貢に謂(い)いて曰(いわ)く、『なんじと回といずれか愈(まさ)れる。』 対(こた)えて曰く、『賜(し)やなんぞあえて回を望まん。 回や一を聞いてもって十を知る。 賜(し)や一を聞いてもって二を知る。』 子曰く、『しかざるなり。 われとなんじとしかざるなり。』」

孔子様が子貢に問いかけた。
「お前は、回と自分とをくらべてみて、どちらが上だと思うね。 どうだろうよ?」
「先生、私など回(顔回 がんかい)には、とてもおよびもつきません。 彼は一を聞いて十を知る人です。 私はせいぜい一を聞いて二を知る程度です。」
「うん、そのとおりだ。 実は私も、お前と同様なのだ。」

この物語の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを



天意天風

2010年1月19日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート15

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート15」だ。

諸君、「論語」に
「己に克って礼に復(かえ)るを仁となす。一日己に克ち礼に復(かえ)れば天下仁に帰す。仁をなすは己に由(よ)りて人に由(よ)らんや」とある。

ここで言う「己」とは、天風の言うところの本来の自己、自我の本質ではない。
「自心という己の心」のことである。
「己に克つ」とは、つまり「克己心(こっきしん)」のことである。
「仁の心」は、自分がしようとしてできるもので、決して他人の力に頼ったり依存するものではない。
「天は自ら助くるものを助く」という諺がある。
本来の克己心とは、この言葉の裏がえしでもある。
「天は自らの心に克つものを助く」とも換言できうる。
両方の言葉からも、人生他力のみをあてにしては断然だめであるということを、合点せしめてくれていると言わねばならない。

渋沢哲学いわく、
「己が物我の己であるとすれば、克己心とは自分だけの主観に勝つ心である。 物我の己を制して常に本然の性-正常な客観の立場に立ち返らせるのである。 こうしてみると克己に最も必要なものは強固な意志の力であり、この力を善用すれば、常に克己は出来る。」

言うに及ばず、これについては何の異論もない。
天風哲学でいうと、克己心とは、
「正心誠意を以って、為されざる事柄というものは、たとえそれがいかに立派そうに見えても、断然人の世のためになるという尊い結果を作為しない。 況(いわん)や、人々の共同幸福のために努力しようとするには、崇高なる克己心というもの・・・すなわち自己に打ち克つ心が、これもまた何より必要である。」
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月18日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート14

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート14」だ。

諸君、「論語」は学而(がくじ)第一から堯曰(ぎょうえつ)第二十までの二十篇からなるもので、いちいちここでは、これ全てを渋沢哲学と天風哲学とに照らして解釈しているわけにもいかないので、重要な根幹になるものだけを述べさせて頂いた。
渋沢哲学のいう「論語」を、余計なものを、余計な固定観念を捨てて、そのまま読み、自身に活かすことを勧めている。
時代の変遷とともに、儒家と称する者たちの固定観念から解放されて論語をそのままを開くと、そこには、いきいきとした、今の今もいきいきとした、血の通う人間集団の人生ドラマが展開している。
渋沢人生哲学もしかり、天風人生哲学もしかりである。
「人間とは何か? いかなるものか? 真の人間らしさとは何か? 真人生に生きるとは何か?」
という命題をよくよく考えさせてくれるものに相違ない。
これこそ、「論語」が長い生命を持ち続け、現代人にとっても共感を覚えさせてくれる理由ではないだろうか?
渋沢哲学しかり、天風哲学しかりである。
根幹に流れているものは、宇宙の天の摂理であり、人間真理であるからだ。
そこには「論語」の中の「仁」「義」「礼」「智」「信」などの徳目が、その教訓として、戒めとして語られているが、天風哲学では「誠と愛を持って一切に応接する」ということを、生前より終生一貫して述べてきたんだ。
私に言わせれば、「仁の心」とは、「誠と愛の心」ということになる。
その至上なるものが、「本心・良心に基づく人の心の思いと行為の真心の状態」をさして「誠心誠意」と言ってきたんですよ。
真心を持って一切の物事に応接するということはね、心身統一された一つの状態にあるんですよ。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月17日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート13

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート13」だ。

諸君、私の代筆をしてくれている黒子君は、これからの二十一世紀において必要不可欠とされる天風哲学を今の時代に換言して、「真我の要諦」を主題として、『天真爛漫自分塾』を一念発起して二カ年ほど前よりはじめたんですよ。
「天真爛漫」とは、ご存知であろうが、あえて説明するならば
『純真で心の中が素直に表れていること。 無邪気でこだわることがないこと。 またそのさま。』と一般的に訳されていますね。

そこでだ! 渋沢さんは、ほぼ私と同じ意見であるのであるが、その言葉をあえて掲載することにする。

「無邪気について一言しておきたい。
世の中を見渡すと、どうも知恵の優れた人物には無邪気の者が少ないように思われる。
ややもすれば知恵の力を借りて心にもない意見を吐いてみたりして、何事でも知恵で人を押さえ込まなければ、知者として、また学者としての本分が立たないと考えているものが少なくないらしい。
したがって知恵を働かす者の多くは、もともと有邪気(ゆうじゃき)に傾きやすいことになる。
しかし知恵があり学問があるからといって、必ずしもその人が無邪気になれないことはないだろうと思う。
無邪気という言葉について考えてみると、邪念のない素直な天真爛漫な性情である。
痴呆(ちほう)とか愚鈍(ぐどん)とかいう意味とは全然違う。
痴呆だ愚鈍だと言われたら恥辱だが、無邪気だと呼ばれても誹謗(ひぼう)の要素は少しも含まれないはずだ。
知恵の働き、学問の積み重ねが十分あって、それで天真爛漫の態度を維持し、知恵や学問を活用していくならば、その人格は実に立派である。
知力や学問の力を悪用して有邪気に働かせるから多くの弊害が起こるので、それと反対の態度で無邪気に活用させる人ならば、そここそ真の世の中の宝である。
知恵があり学問があればあるほど、いっそう無邪気であることを願うべきではないだろうか。
そういう性格の青年が私の好む人物だが、現代の社会もみなこのような青年を歓迎すると思う。
実業界に志すか否かにかかわらず、今日の青年はできればそういう性格を養うことを希望する。」

以上、私に限らず誰しも、もちろんこれに異存はないでしょうよ。
本日はこれまで。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風

2010年1月16日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート12

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート12」だ。

諸君、手前事なんだが、生前の中村天風は明治九年(1876)7月30日、今現在の東京北区王子に生まれたんですよ。
本人はおぼえてませんがね!
渋沢さんの邸宅がJR京浜東北線の王子駅の坂上の飛鳥山にあるね。
父は中村祐興(すけおき)、母テウの三男坊で生前の私の本名は中村三郎です。
私の著書等で、ご存知でありましょうが、父中村祐興は九州福岡の柳川藩主の立花家につながる出身で、渋沢栄一氏が退官した後に同じ大蔵省の役人になったんだね。
ここで渋沢哲学と天風哲学の共通点をあげて述べてみたい。
今回のテーマは、「論語と算盤と天風哲学と電卓」というテーマになっているね。
この電卓は、天風の生前中に開発されたものなんですぞ。
電子式卓上計算機の略でね、1964年(昭和39年)に商品化した製品としてはシャープが開発した日本初の電卓なんだね。
カシオが「答え一ぱつカシオミニ」なんて電卓のTVコマーシャルがあったね。
その後に日本や世界に電卓は普及していくことになったんですな。

今では、カシオも世界最先端の時計メーカーの一つになったものな。
もちろんシャープやカシオも電子辞書やハイテク機器メーカーでもあるがね。
シャープさんなんかはソーラーカンパニーをうたい文句にしているね。
ご存知の通りですよ。
諸君の携帯電話にも電卓機能が当たり前に入っているね。
そろばんじゃないよな。
時代の変遷によって、生成発展してきているんですな。
日々新たなりだね。
私は明治生まれ、渋沢さんは江戸天保の生まれだが、お互い90歳を超えての長寿であった。
ちなみに孔子様は73歳で他界しているとされているのだが、その当時の時代では長命だね。
今どきなら、90歳位に匹敵するのだろうかねぇ?
お互い両人とも、個人的にはエポックメーキングとなった画期的な新しいものが好きなんだね!
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを



天意天風

2010年1月15日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート11

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート11」だ。

諸君、昨日は「六十にして魂(たましい)の声に心の耳をそばだてるようによく聞くようになった」と述べました。
この次は、齢(よわい)「七十にして、心の欲するところに従えども、矩(のり)を超(こ)えず。」、この天風哲学的解釈は、人間の「心」はこの世に生きゆくための不可欠な要具である。
この要具である心が働くと思ったり考えたりする思考になるんだね。
心の働きはてぇっと、思ったり考えたりすることが仕事なんだ。
心が何にも思考していない時は、表向き心の要具は働いていないんですな。
そんなことは当り前だね。
その心の働いている状態をさして〈意識〉と言っているんですよね。

好きで好きでたまらない、愛しい人に片思い!
なかなか相手に直接言葉にして、告白出来ない。
諸君も経験ありますかい?
これって、片思いなんだから、相手のこと思ったり考えたりしている、心が働いている状態ですよね。
つまり、意識しているということだね。

孔子様は、長い月日の間に、意識しようとしまいとに関わらず、〈習慣は第二の天性〉と言われるように、潜在意識に心の天器が出来上がっていたものですから、無意識下であっても常に天に通じる心の状態になっていたんだね。
そして、矩(のり)は、宇宙の真理、宇宙法則のことです。
自我の心で思ったり考えたりすること、そして行為すべてが、宇宙の真理、宇宙の法則に自然とかなっている状態になったんだね。
孔子七十歳にして「思ったり考えたりする意識する習慣と実践行動が一つとなり、宇宙真理である生生化育進化向上に順応する私になりました・・・」 という大悟の心境だったんだろうね。
これが天風哲学でいうところの心身統一状態だね。
「論語」に表された、孔子様とその弟子達との生き様をとおして、天理に則した「天道」「地道」「人道」を天の導きを得て〈徳の道〉として表したんだね。
私はそのように解釈している。
天風に言わせれば、これが「王道」だね!
これが人生のロイヤルロードなんですよ。
これを知り、行うことが本来の「道徳」と感得している。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月14日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート10

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート10」だ。

諸君、五十で天命を知った孔子様だが、次の「六十にして耳順(したが)う。」までには、十年の歳月を費やしているね。
天風解釈では、この耳順うという意味は、顔の横についている耳ではありませんぞ。
「心の耳」のことなんだ。
「心耳-しんじ」。
つまり、心を耳にすることだね。
孔子の弟子や様々な多様な人間の意見にも素直に耳を傾けられるようになったんじゃないんだ。
自己の〈本然の自性〉、自我の本質である〈真我の扉〉が完全にオープンするのに十年の歳月がかかったんですよ。

天風さん、一体何のこと言っているんですか? 理解できませんよ!

ま~、そうでしょうな!
頭で、理屈で考えるとわかりませんぜ。
孔子様が四十までは、「いよいよ学んで、いよいよ苦しみ、いよいよ極めて、いよいよ迷う」と言ってます。
幼いころから学問して、様々な物事から知識を得てきた。
学べば学ぶほど、知れば知るほど、苦しくなる。
かえって何も知らないほうが余計なこと考えずにすんだのに!
突きつめれば、つめるほど迷い苦しくなってくるんだね。
はなから、知らなきゃ考えないね。
知らなければ、思いはしませんよ。
そうでしょう。
知らないことを考えるという人間はいやしません。
しかし、孔子様は人生かけて、命がけで、真我の霊門の扉をあきらめずに叩き続けたんだね。
「叩けよ、さらば開かれん」だね。
六十になって、真我を通じて、天の啓示なるものを心耳でよく聞き、天啓の示唆に素直に順うようになったんだね。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月13日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート9

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート9」だ。

諸君、孔子様が自身の天命をどこから知ったのか?
天風哲学にあえて照らし合わせてみると「本来の自己」「本然の自性」と呼んでいる「真の我」を通して、「天の啓示」を受けたんですよ。
何も言葉で「もしもし天ですが孔子さんですね。」「はいはい孔子です。」なんて電話で話をしたんじゃないでしょうがね?
天との回線が開通したんでしょうな。

大変な学問してるからって、心頭で考えて気づいたんじゃないですよ。
孔子様あてに、天命という名の天からの業務連絡があったんですな。
天からの業務連絡を天啓といいます。
孔子様の霊魂(スピリッツ)が第一番に受け取り、孔子様の心に伝達したんですな。
齢(よわい)五十でもうすでに天の啓示を受ける受け皿が大きく出来あがっていたものですから、天から甘露(かんろ)の法雨が彼目掛けて堰(せき)を切ったようにどんどん降り注いだんですな。
きっと、きっと、きっとね。
こうなると、理屈抜きで天の道理を知っちゃったんですよ。
「ああ~、なるほどそうなんだ!」
これって、天風哲学では自然承認(しぜんしょうにん)すると言っております。
自我小我の心と真我本心良心の心と天の意志たる心と一つながりになっちゃったんだね。
その刹那瞬間に天命という使命に気づかされたんだろうね。
ここで言っている天命はだね・・・
世間一般の通念概念で言われていることでなくして、刹那であろうと一瞬の「大我の大悟」であったんだ。
換言すれば、天意(あい)を知ったんだね。
私はそう確信する。
諸君はどう思われるかね?
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月12日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート8

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート8」だ。

諸君、いよいよ天命を知るにいたった孔子様のエピソードの原点だね。
昨日、お話をしたように、心と体は、この物理次元の人間世界の表現に不可欠の要具なんだと述べました。
諸君、わかっちまえば、そう難しいことではないんですよ。
わかっちまえば、「なぁーんだ、そんな簡単なことか、ずいぶんと、難しく考えていたが、心一つ素直になれば、実に単純なことだ。」と、自覚される時が訪れるんです。
自身の人生の体験、経験を通して、理屈抜きで、「なるほどなー、そうだなー、うん!うん!そうだ!そうだ!」って、勝手にうなずくようになっちまうんですよ。
諸君、ご存知の通り、諸君の本質である、真の自己は英語で言えば「Spiritsスピリッツ」、日本語で言えば「霊魂」ですよ。
この霊魂の意識を、霊性意識と呼んでいます。
みなさんの思ったり考えたりする心の働きである「自我の意識」と分けて、「真我の意識」とも呼んでいます。
諸君、霊魂たる真我が諸君の本来の自己なんです。
わかっている諸君は、もう常識ですね!
天風哲学では、「本然の自性」とか、「自我の本質」と呼んでおります。
肩の力を抜いて、「ああそういう考え方もあるんだ。」ぐらいに、受け入れて下されば結構ですよ。
そう、素直な心になってね!
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月11日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート7

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート7」だ。

諸君、「孔子様は、『天命を知る』は、どこから知ったのか? どうして知ることが出来たのか?」という疑問に答える前に、諸君の心や肉体が、「人間=自己」に対してどんな関係にあるかについて説明しよう。
心や肉体が人間そのもののように多くの人は認識されているが、本当のところは、ズバリ実はそうではないんですよ。
人間がこの世に活きるのに必要ないろいろな方便(ほうべん)を行うための道具という関係にあるんですよ。
哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の存在と生活とを確保存続させるに必要な不可分的生命付属物なんですな。
故に、心や肉体は、「人=自己」ではなく、ましてそれが「人=自己」本体ではないのであります。
諸君、これは人間創造真理でもあり、「本然の自性」と呼んでいる天風哲学の真骨頂であります。
そして、天風哲学の基本中の基盤、土台中の一番基礎になっている「真我の要諦」の要素の一つであります。
小難しくなってきましたので、背伸びでもして、長く、ゆったり深呼吸して、頭と体をほぐして下さいな。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風