2010年1月23日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート4

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート4」だ。

諸君、大勢門人がいると好き嫌い、妬(ねた) み、嫉(そね)み等、様々な感情がうずまくね。
「男も女も人間だものなあ!」
そう言いたくなる諸君もいやしませんかい?
そう言えば、相田みつお氏の言葉を借りて、言い訳にしている人、けっこう多いいね!
諸君も、何か都合が悪くなると「人間だもの」を言い訳にしていませんかな?
「だって人間だもの、嫉妬の一つや二つくらいしたってしょうがないじゃない。 それが人間だもの!」なんてね。
他人のトイレの中をのぞき見してるわけじゃないんだがね、何故か相田氏の名言集は、トイレの中にかけてあるのをちょくちょく見かけるんだがねぇ!
私の生前の言葉てぇのは、天風ファンの諸君はトイレにかけないねぇ?
何故だろうかな?
「意識的に肛門をしめて、同時に肩から力を抜いて、丹田に力を入れよ! クンバハ法 積極的に!」なんて書いてあったら、出るものも出にくいよなぁ・・・
あたり前だ、肛門しめてんだからね。

まぁー、男の嫉妬もあるということですな。
〈孔子様、命!〉の子路が、「回よ!回よ!」といって顔回ばかり可愛がるものだから、心中実に面白くない。

「俺なんか自慢じゃないが、先生のこと大好き、大!大!大好き!愛しているって思っているのに、先生に喜んでもらおうとすればするほど、『子路よ、お前は思慮にかける。 物事を慎重によくよく考えてから行動しなさい!』こればかりだよ。 『回は一を聞いたら十を知る。 子路よ、おまえも回を見習ってツメのあかでも煎じて飲みなさい。』じょうだんじゃないぜ! 『子路よ、お前の勇(ゆう)は、真の勇気ではないぞ。 おまえの勇気は思慮分別のない、浅はかな勇気だ。』 子路よ思慮がない―しゃれにもならないぜ。」

孔子先生が何を語っているかの真意がわからない、愚痴をこぼしてばかりの子路でありました。
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月22日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート3

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート3」だ。

孔子先生の直接の薫陶(くんとう)を受けれた門下生は大勢おられたであろう。
しかし、三千人もの孔門の弟子が、一箇所に寝食を共にしていたとは無理がある。
しかし、かなり大勢の者が、学んでいたことであろう。
であるからして、孔子先生の回りには、門人同士の中で、先輩、後輩の関係や、年功序列や、成績の順の序列、役割等の序列があったでありましょう。
ここでは、論語から学ぶ「男の嫉妬」の逸話創作物語であります。
タイトルは「男の嫉妬 一を聞いて十を知る! 百を聞いて一を知る」だ。
どうしてまあ、「嫉妬」という字は、女偏がダブルで合わさっているのかいね~?
男子は嫉妬しないのかいな?

「いつも上司に可愛がられて、あいつはいいなぁ~。 俺ときたらいつも怒鳴られたり、怒られてばかりいる。 上司ときたらあいつばかりほめて、身贔屓(みびいき)しやがって、その前で『君も彼を見習いたまえ』なんて言いやがる。 仕事じゃ俺の方が出来るのに、どうしてなんだい。 あいつは要領がいいものなぁ~。 しかし、上司とあいつの顔見るとほんとむかつくぜ!」

こんな心のつぶやき、過去においても、今現在においても、男性諸君は、なかったですかい?
これってひょっとして「やきもち」、これってひょっとして「男の嫉妬」ですかい?
もしこれ嫉妬であったら、嫉妬は女性特有のものではありませんな。
ということであれば、嫉妬も二通りつくらないと不公平でいけませんな。
男女平等です。
あえて、男(おとこ)偏をこしらえて、男二つで「男のしっと」と読む!
どうですかな?
え~え、私は中間! そうかい!そうかい!
男女中間なんだね。
半分半分なんだね。
男女どちらの気持ちもわかるから、それはそれで中立でよろしい!
そんな方は男半分、女半分にして書いてくれたまえ!
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月21日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート2

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく)~論語創作ものがたり パート2」だ。

諸君、ここで最も重要な登場人物である回(かい)こと顔回(がんかい)と子路(しろ)こと季路(きろ)のプロフィールを紹介しておこう。

この回は、顔回(がんかい)という方のことだが、孔門十哲の第一番目にあげられる、孔子門下第一の優等生なんだ。
孔子が最もかわいがったと言われている。
若くして亡くなったものであるから、非常に孔子様は嘆かれたと言われている方だね。
孔子様は、自分亡き後、後継ぎにしようと考えておられた方のようだね。
孔子様にとっては頼りにしている期待の人物であったんだね。
もう一人ここで重要な登場人物がいるんだ。
子路といって孔門十哲の一人。
姓は仲、名は由、子路は字(あざな)。
勇を好んだとされている方だ。
孔子様にぞっこん惚れていたんだね。
孔子様のためなら、命の一つや二つや三つは捧げても惜しくない覚悟の献身的な方だったんだね。
そんな反面、かなりの乱暴者で、無鉄砲なやんちゃな性分だったようだね。
参考までに孔子門下の選りすぐりの十人をご紹介しよう。
「孔門の十哲」と言われる方々だ。
徳行に優れた顔淵(がんえん、顔回)、同じく閔子騫(びんしけん)、同じく冉伯牛(ぜんはくぎゅう)、同じく仲弓(ちゅうきゅう)。
言語弁舌に優れた宰我(さいが)、同じく子貢。
政事に優れた冉有(ぜんゆう)、季路(きろ、子路)。
文学に優れた子游(しゆう)、同じく子夏(しか)の十人である。
その当時、孔子門下は三千人とも言われているらしいが、それ以上とも言われてもいる。
本当のところはわからないから、ここでは孔門三千人位の弟子がすでにいたという設定にしておこう。
その孔門三千の中の十人ですから、たいしたものだね。
諸君、この「論語創作ものがたり」の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月20日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓~論語創作ものがたり パート1

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) ~論語創作ものがたり パート1」だ。

諸君、本日は「論語」について小難しいし、固い話をしてきたので、諸君も肩もこってきたであろう。
肩の力を抜いてリラックスして話を聞いて頂きたい!
よろしいであろうか?
「天風講釈師見て来たように言う」という言葉もあるかも。


孔子様と弟子の子貢(しこう)との会話のやりとりなんだね。
この子貢さんは孔子の弟子の中でも古参で、側近中の側近の方の一人だったんだろうね。
孔門十哲の一人にあげられているんです。
姓は端木(たんぼく)、名は賜(し)、子貢(しこう)は字(あざな)。
弁舌、政治力に優れ、斉が魯(ろ)を攻撃しようとした時、諸国を遊説し、これを救った。
また貨殖の才もあったと伝えられている。


せっかくだからキャストを決めようか!
ここでは天風が孔子先生の役、諸君が子貢役だと決めて、子貢 になりきって聞いて下されや!
題して「論語創作ものがたり」だ。
あと、ここで最も重要な登場人物がある。
回(かい)こと顔回(がんかい)と子路(しろ)こと季路(きろ)である。

これは第五編公冶長(こうやちょう)に出てくる有名な問答なんだ。
諸君も御存知であろう。

「子、子貢に謂(い)いて曰(いわ)く、『なんじと回といずれか愈(まさ)れる。』 対(こた)えて曰く、『賜(し)やなんぞあえて回を望まん。 回や一を聞いてもって十を知る。 賜(し)や一を聞いてもって二を知る。』 子曰く、『しかざるなり。 われとなんじとしかざるなり。』」

孔子様が子貢に問いかけた。
「お前は、回と自分とをくらべてみて、どちらが上だと思うね。 どうだろうよ?」
「先生、私など回(顔回 がんかい)には、とてもおよびもつきません。 彼は一を聞いて十を知る人です。 私はせいぜい一を聞いて二を知る程度です。」
「うん、そのとおりだ。 実は私も、お前と同様なのだ。」

この物語の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを



天意天風

2010年1月19日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート15

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート15」だ。

諸君、「論語」に
「己に克って礼に復(かえ)るを仁となす。一日己に克ち礼に復(かえ)れば天下仁に帰す。仁をなすは己に由(よ)りて人に由(よ)らんや」とある。

ここで言う「己」とは、天風の言うところの本来の自己、自我の本質ではない。
「自心という己の心」のことである。
「己に克つ」とは、つまり「克己心(こっきしん)」のことである。
「仁の心」は、自分がしようとしてできるもので、決して他人の力に頼ったり依存するものではない。
「天は自ら助くるものを助く」という諺がある。
本来の克己心とは、この言葉の裏がえしでもある。
「天は自らの心に克つものを助く」とも換言できうる。
両方の言葉からも、人生他力のみをあてにしては断然だめであるということを、合点せしめてくれていると言わねばならない。

渋沢哲学いわく、
「己が物我の己であるとすれば、克己心とは自分だけの主観に勝つ心である。 物我の己を制して常に本然の性-正常な客観の立場に立ち返らせるのである。 こうしてみると克己に最も必要なものは強固な意志の力であり、この力を善用すれば、常に克己は出来る。」

言うに及ばず、これについては何の異論もない。
天風哲学でいうと、克己心とは、
「正心誠意を以って、為されざる事柄というものは、たとえそれがいかに立派そうに見えても、断然人の世のためになるという尊い結果を作為しない。 況(いわん)や、人々の共同幸福のために努力しようとするには、崇高なる克己心というもの・・・すなわち自己に打ち克つ心が、これもまた何より必要である。」
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月18日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート14

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート14」だ。

諸君、「論語」は学而(がくじ)第一から堯曰(ぎょうえつ)第二十までの二十篇からなるもので、いちいちここでは、これ全てを渋沢哲学と天風哲学とに照らして解釈しているわけにもいかないので、重要な根幹になるものだけを述べさせて頂いた。
渋沢哲学のいう「論語」を、余計なものを、余計な固定観念を捨てて、そのまま読み、自身に活かすことを勧めている。
時代の変遷とともに、儒家と称する者たちの固定観念から解放されて論語をそのままを開くと、そこには、いきいきとした、今の今もいきいきとした、血の通う人間集団の人生ドラマが展開している。
渋沢人生哲学もしかり、天風人生哲学もしかりである。
「人間とは何か? いかなるものか? 真の人間らしさとは何か? 真人生に生きるとは何か?」
という命題をよくよく考えさせてくれるものに相違ない。
これこそ、「論語」が長い生命を持ち続け、現代人にとっても共感を覚えさせてくれる理由ではないだろうか?
渋沢哲学しかり、天風哲学しかりである。
根幹に流れているものは、宇宙の天の摂理であり、人間真理であるからだ。
そこには「論語」の中の「仁」「義」「礼」「智」「信」などの徳目が、その教訓として、戒めとして語られているが、天風哲学では「誠と愛を持って一切に応接する」ということを、生前より終生一貫して述べてきたんだ。
私に言わせれば、「仁の心」とは、「誠と愛の心」ということになる。
その至上なるものが、「本心・良心に基づく人の心の思いと行為の真心の状態」をさして「誠心誠意」と言ってきたんですよ。
真心を持って一切の物事に応接するということはね、心身統一された一つの状態にあるんですよ。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月17日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート13

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート13」だ。

諸君、私の代筆をしてくれている黒子君は、これからの二十一世紀において必要不可欠とされる天風哲学を今の時代に換言して、「真我の要諦」を主題として、『天真爛漫自分塾』を一念発起して二カ年ほど前よりはじめたんですよ。
「天真爛漫」とは、ご存知であろうが、あえて説明するならば
『純真で心の中が素直に表れていること。 無邪気でこだわることがないこと。 またそのさま。』と一般的に訳されていますね。

そこでだ! 渋沢さんは、ほぼ私と同じ意見であるのであるが、その言葉をあえて掲載することにする。

「無邪気について一言しておきたい。
世の中を見渡すと、どうも知恵の優れた人物には無邪気の者が少ないように思われる。
ややもすれば知恵の力を借りて心にもない意見を吐いてみたりして、何事でも知恵で人を押さえ込まなければ、知者として、また学者としての本分が立たないと考えているものが少なくないらしい。
したがって知恵を働かす者の多くは、もともと有邪気(ゆうじゃき)に傾きやすいことになる。
しかし知恵があり学問があるからといって、必ずしもその人が無邪気になれないことはないだろうと思う。
無邪気という言葉について考えてみると、邪念のない素直な天真爛漫な性情である。
痴呆(ちほう)とか愚鈍(ぐどん)とかいう意味とは全然違う。
痴呆だ愚鈍だと言われたら恥辱だが、無邪気だと呼ばれても誹謗(ひぼう)の要素は少しも含まれないはずだ。
知恵の働き、学問の積み重ねが十分あって、それで天真爛漫の態度を維持し、知恵や学問を活用していくならば、その人格は実に立派である。
知力や学問の力を悪用して有邪気に働かせるから多くの弊害が起こるので、それと反対の態度で無邪気に活用させる人ならば、そここそ真の世の中の宝である。
知恵があり学問があればあるほど、いっそう無邪気であることを願うべきではないだろうか。
そういう性格の青年が私の好む人物だが、現代の社会もみなこのような青年を歓迎すると思う。
実業界に志すか否かにかかわらず、今日の青年はできればそういう性格を養うことを希望する。」

以上、私に限らず誰しも、もちろんこれに異存はないでしょうよ。
本日はこれまで。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを
天意天風

2010年1月16日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート12

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート12」だ。

諸君、手前事なんだが、生前の中村天風は明治九年(1876)7月30日、今現在の東京北区王子に生まれたんですよ。
本人はおぼえてませんがね!
渋沢さんの邸宅がJR京浜東北線の王子駅の坂上の飛鳥山にあるね。
父は中村祐興(すけおき)、母テウの三男坊で生前の私の本名は中村三郎です。
私の著書等で、ご存知でありましょうが、父中村祐興は九州福岡の柳川藩主の立花家につながる出身で、渋沢栄一氏が退官した後に同じ大蔵省の役人になったんだね。
ここで渋沢哲学と天風哲学の共通点をあげて述べてみたい。
今回のテーマは、「論語と算盤と天風哲学と電卓」というテーマになっているね。
この電卓は、天風の生前中に開発されたものなんですぞ。
電子式卓上計算機の略でね、1964年(昭和39年)に商品化した製品としてはシャープが開発した日本初の電卓なんだね。
カシオが「答え一ぱつカシオミニ」なんて電卓のTVコマーシャルがあったね。
その後に日本や世界に電卓は普及していくことになったんですな。

今では、カシオも世界最先端の時計メーカーの一つになったものな。
もちろんシャープやカシオも電子辞書やハイテク機器メーカーでもあるがね。
シャープさんなんかはソーラーカンパニーをうたい文句にしているね。
ご存知の通りですよ。
諸君の携帯電話にも電卓機能が当たり前に入っているね。
そろばんじゃないよな。
時代の変遷によって、生成発展してきているんですな。
日々新たなりだね。
私は明治生まれ、渋沢さんは江戸天保の生まれだが、お互い90歳を超えての長寿であった。
ちなみに孔子様は73歳で他界しているとされているのだが、その当時の時代では長命だね。
今どきなら、90歳位に匹敵するのだろうかねぇ?
お互い両人とも、個人的にはエポックメーキングとなった画期的な新しいものが好きなんだね!
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを



天意天風

2010年1月15日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート11

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート11」だ。

諸君、昨日は「六十にして魂(たましい)の声に心の耳をそばだてるようによく聞くようになった」と述べました。
この次は、齢(よわい)「七十にして、心の欲するところに従えども、矩(のり)を超(こ)えず。」、この天風哲学的解釈は、人間の「心」はこの世に生きゆくための不可欠な要具である。
この要具である心が働くと思ったり考えたりする思考になるんだね。
心の働きはてぇっと、思ったり考えたりすることが仕事なんだ。
心が何にも思考していない時は、表向き心の要具は働いていないんですな。
そんなことは当り前だね。
その心の働いている状態をさして〈意識〉と言っているんですよね。

好きで好きでたまらない、愛しい人に片思い!
なかなか相手に直接言葉にして、告白出来ない。
諸君も経験ありますかい?
これって、片思いなんだから、相手のこと思ったり考えたりしている、心が働いている状態ですよね。
つまり、意識しているということだね。

孔子様は、長い月日の間に、意識しようとしまいとに関わらず、〈習慣は第二の天性〉と言われるように、潜在意識に心の天器が出来上がっていたものですから、無意識下であっても常に天に通じる心の状態になっていたんだね。
そして、矩(のり)は、宇宙の真理、宇宙法則のことです。
自我の心で思ったり考えたりすること、そして行為すべてが、宇宙の真理、宇宙の法則に自然とかなっている状態になったんだね。
孔子七十歳にして「思ったり考えたりする意識する習慣と実践行動が一つとなり、宇宙真理である生生化育進化向上に順応する私になりました・・・」 という大悟の心境だったんだろうね。
これが天風哲学でいうところの心身統一状態だね。
「論語」に表された、孔子様とその弟子達との生き様をとおして、天理に則した「天道」「地道」「人道」を天の導きを得て〈徳の道〉として表したんだね。
私はそのように解釈している。
天風に言わせれば、これが「王道」だね!
これが人生のロイヤルロードなんですよ。
これを知り、行うことが本来の「道徳」と感得している。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月14日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート10

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート10」だ。

諸君、五十で天命を知った孔子様だが、次の「六十にして耳順(したが)う。」までには、十年の歳月を費やしているね。
天風解釈では、この耳順うという意味は、顔の横についている耳ではありませんぞ。
「心の耳」のことなんだ。
「心耳-しんじ」。
つまり、心を耳にすることだね。
孔子の弟子や様々な多様な人間の意見にも素直に耳を傾けられるようになったんじゃないんだ。
自己の〈本然の自性〉、自我の本質である〈真我の扉〉が完全にオープンするのに十年の歳月がかかったんですよ。

天風さん、一体何のこと言っているんですか? 理解できませんよ!

ま~、そうでしょうな!
頭で、理屈で考えるとわかりませんぜ。
孔子様が四十までは、「いよいよ学んで、いよいよ苦しみ、いよいよ極めて、いよいよ迷う」と言ってます。
幼いころから学問して、様々な物事から知識を得てきた。
学べば学ぶほど、知れば知るほど、苦しくなる。
かえって何も知らないほうが余計なこと考えずにすんだのに!
突きつめれば、つめるほど迷い苦しくなってくるんだね。
はなから、知らなきゃ考えないね。
知らなければ、思いはしませんよ。
そうでしょう。
知らないことを考えるという人間はいやしません。
しかし、孔子様は人生かけて、命がけで、真我の霊門の扉をあきらめずに叩き続けたんだね。
「叩けよ、さらば開かれん」だね。
六十になって、真我を通じて、天の啓示なるものを心耳でよく聞き、天啓の示唆に素直に順うようになったんだね。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月13日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート9

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート9」だ。

諸君、孔子様が自身の天命をどこから知ったのか?
天風哲学にあえて照らし合わせてみると「本来の自己」「本然の自性」と呼んでいる「真の我」を通して、「天の啓示」を受けたんですよ。
何も言葉で「もしもし天ですが孔子さんですね。」「はいはい孔子です。」なんて電話で話をしたんじゃないでしょうがね?
天との回線が開通したんでしょうな。

大変な学問してるからって、心頭で考えて気づいたんじゃないですよ。
孔子様あてに、天命という名の天からの業務連絡があったんですな。
天からの業務連絡を天啓といいます。
孔子様の霊魂(スピリッツ)が第一番に受け取り、孔子様の心に伝達したんですな。
齢(よわい)五十でもうすでに天の啓示を受ける受け皿が大きく出来あがっていたものですから、天から甘露(かんろ)の法雨が彼目掛けて堰(せき)を切ったようにどんどん降り注いだんですな。
きっと、きっと、きっとね。
こうなると、理屈抜きで天の道理を知っちゃったんですよ。
「ああ~、なるほどそうなんだ!」
これって、天風哲学では自然承認(しぜんしょうにん)すると言っております。
自我小我の心と真我本心良心の心と天の意志たる心と一つながりになっちゃったんだね。
その刹那瞬間に天命という使命に気づかされたんだろうね。
ここで言っている天命はだね・・・
世間一般の通念概念で言われていることでなくして、刹那であろうと一瞬の「大我の大悟」であったんだ。
換言すれば、天意(あい)を知ったんだね。
私はそう確信する。
諸君はどう思われるかね?
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月12日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート8

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート8」だ。

諸君、いよいよ天命を知るにいたった孔子様のエピソードの原点だね。
昨日、お話をしたように、心と体は、この物理次元の人間世界の表現に不可欠の要具なんだと述べました。
諸君、わかっちまえば、そう難しいことではないんですよ。
わかっちまえば、「なぁーんだ、そんな簡単なことか、ずいぶんと、難しく考えていたが、心一つ素直になれば、実に単純なことだ。」と、自覚される時が訪れるんです。
自身の人生の体験、経験を通して、理屈抜きで、「なるほどなー、そうだなー、うん!うん!そうだ!そうだ!」って、勝手にうなずくようになっちまうんですよ。
諸君、ご存知の通り、諸君の本質である、真の自己は英語で言えば「Spiritsスピリッツ」、日本語で言えば「霊魂」ですよ。
この霊魂の意識を、霊性意識と呼んでいます。
みなさんの思ったり考えたりする心の働きである「自我の意識」と分けて、「真我の意識」とも呼んでいます。
諸君、霊魂たる真我が諸君の本来の自己なんです。
わかっている諸君は、もう常識ですね!
天風哲学では、「本然の自性」とか、「自我の本質」と呼んでおります。
肩の力を抜いて、「ああそういう考え方もあるんだ。」ぐらいに、受け入れて下されば結構ですよ。
そう、素直な心になってね!
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月11日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート7

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート7」だ。

諸君、「孔子様は、『天命を知る』は、どこから知ったのか? どうして知ることが出来たのか?」という疑問に答える前に、諸君の心や肉体が、「人間=自己」に対してどんな関係にあるかについて説明しよう。
心や肉体が人間そのもののように多くの人は認識されているが、本当のところは、ズバリ実はそうではないんですよ。
人間がこの世に活きるのに必要ないろいろな方便(ほうべん)を行うための道具という関係にあるんですよ。
哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の存在と生活とを確保存続させるに必要な不可分的生命付属物なんですな。
故に、心や肉体は、「人=自己」ではなく、ましてそれが「人=自己」本体ではないのであります。
諸君、これは人間創造真理でもあり、「本然の自性」と呼んでいる天風哲学の真骨頂であります。
そして、天風哲学の基本中の基盤、土台中の一番基礎になっている「真我の要諦」の要素の一つであります。
小難しくなってきましたので、背伸びでもして、長く、ゆったり深呼吸して、頭と体をほぐして下さいな。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月10日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート6

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート6」だ。

諸君、諸君の中にも生前の私の著書を手にとって読まれた方もおられるでしょう。
天風哲学の真骨頂は「人間は万物の霊長である。」という根幹に流れている絶対の真実である。
ここが一番大事なことであるが、特に忘れてはならないことは、万物の中でも人間は、宇宙根本の創造エネルギーの分派分量を最も多く頂戴しているということだ。
ヨガ哲学では「先天の一気」と呼んでいるんですよ。
人間以外の生命が真似(まね)することのできないほど、まことに多くの分量をいただいている。
故にこのことが、人間が自然物の中で霊長といわれる所以があるんです。
けっして人間のおごりでそう言っているんじゃないんですぞ。
天風哲学は、造物主が人間を万物の霊長として創造された、人間本来の面目とは何かを、私の生涯かけての体験経験から問うて、探究して、導き出した実践哲学なんですよ。
その目的は、万物の霊長たる本来の人間に立ちかえること。
そして、本来の人間として生きることなんですよ。
生前はこのことを真人間として真人生を生きることを天の導きを得てお伝えしていたんですよ。

「天風哲学は、本来儒教や仏教、神道などをはじめ、多様な宗教や哲学を『打って一丸』としたものであり、日々に自ら実践し、行うものであり、人生という社会生活の現場に活かしてこそ意味がある。 単なる知識だけの修得では、『論語読みの論語知らず』と同じことで意味がない。」

これは私の生前に述べた言葉なんですぞ。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月9日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート5

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート5」だ。

諸君、「論語」、為政(いせい)篇四章をかみくだく前に、御参考までに一般的に、このように訳されているんですよ。

「私は十五歳の時に学問によって身を立てようと決心した。」
「三十歳で自分の立場ができた。」
「四十歳で自分の方向に確信を持った。」
「五十歳で天から与えられた使命を自覚した。」
「六十歳で誰の意見にも素直に耳を傾けられるようになった。」
「そして七十歳になると、自分でおさえる努力をしないでも調和が保てる自在な境地に達した。」

「論語」は、約二千五百年前の孔子(孔丘 こうきゅう)を中心とする人間集団のエピソードの対話記録であるからして、孔子の言行を主とし、弟子たちとの対話、弟子たち自身の言行などを孔子の没後、編集したものであるから、長い歴史の変遷を経ながら、様々な方々に、様々な解釈をされてきたんですよ。
解釈する方のとらえかた、考え方に、またその方の時代の背景や、境遇、おかれた立場において、多少意味合いが、表現が異なっているんですな。
「論語」は、長きの間、人間倫理道徳の規範として未だに使われている以上、人間真理を表現しているからこそであり、人間くさいが故、生きていく指針、実践とするうえでは、分かりがよかったんでしょうがね。
諸君もそのことをふまえて、私の話をよく聞いて、自分のものとして、よく咀嚼(そしゃく)して頂ければ結構だ。
諸君の心一つのとらえどころ、考えどころですからな。

五十歳にして天命を知るに及んだ孔子様だが、自身の天命をどこから知ったのかというのが、疑問で知りたいところだね。
自分に置きかえれば、諸君も
「私の、俺の天命ってなんだろうか?」
知りたいと思いますでしょうよ。
天風に言わせれば、解釈一つでそのヒントが隠されているんですよ。
ましてやこれから立って行こうとする方であれば当然であろうよ!
それは「五十歳で天命を知る。」「六十にして耳順(みみしたが)う。」
ここなんだ!
ここを注目の的にしたんだね!
この順番とその解釈で、まったく意味が異なるんですよ。
諸君、ここで言う天風流「論語」解釈の中心基軸になるものがあるからなんだ。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月8日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート4

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート4」だ。

諸君、「論語」の中によく、引用される有名な一説がある。
孔子先生、辞世(じせい)を詠(よ)んでの弟子との会話だとされているものです。

子曰く、
「十五にして学を志す 三十にして立ち 四十にして惑(まど)わず 五十にして天命を知り 六十にして耳順(みみしたが)う 七十にして心の欲(ほっ)する処(ところ)に従(したが)えども矩(のり)を超(こ)えず」

諸君も、どこかで読んだり、聞いたことがあるでしょうよ。
天風流に解釈すると、孔子先生が言われるには、
十五歳で学問で身を立てていこうと志(こころざ)した。
三十歳になって学問のあるおかげで重用(ちょうよう)され、立身出世した。
四十歳になって己(おのれ)のなすことに信念がもてるようになり、心が迷わなくなった。
五十歳にして天から与えられた天分の自分の使命に気づいた。
六十歳にして自我の心の耳が我が内なる真の自己を通じて、内なる声、天の声、天の啓示の声に素直に心の耳をかたむけてよく聞くようになった。
七十歳にして自我の心の働きである思ったり考えたりする意識のままに行動しようとも天の摂理(せつり)に自ずと沿うようになった。

孔子七十歳を超えての大悟の気づきであると天風は解釈している。
明日は、上記の内容をかみくだいて話をすることにする。
では・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月7日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート3

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート3」だ。

諸君、「論語」は、孔子と弟子の対話による言行録であることは、今さら偉そうに言うまでもありませんな。
その「論語」を通して、孔子と弟子のやりとりで、孔子の処世術や孔子の性格やその意味を、渋沢哲学と天風哲学に照らし合わせて考察してみたい。
また、渋沢哲学と天風哲学は、真理を表現している一つの側面として、そのプリンシプルとなる柱(はしら)は、相通じるものがある。
ここでは、諸君に天風の「論語」観を少しずつ述べてゆきたいと考えている。
天風さん、何を言いたいんだいと問われれば?
天風流「論語」観を中心基軸にして、論語を解釈するとどんなとらえ方、考え方になるかということだね!!
わかりにくいかい?
つまり、天風流のものさしやスケールでの新説「論語」解釈ですよ。
まず、渋沢さんと天風の相通じる共通の側面は、渋沢さんが生前にこのように述べているんだよ。

「世に生まれ出たのは、直接には父母の恵みであるが、本源は、造物主であって、何事かやるべき使命を与えて、自分をこの世に出したのだから、使命を全うするのは人間の義務である。
才能がある者はあるだけ、また少ない者も少ないだけの才能を用いてそれぞれ力を尽くすのが、人としてこの世に対する義務であると私は確信している。
私自身、ここに人生の方針の基準を置いている。
これは必ずしも『論語』から得たものでもなければ、仏教や神道に学んだわけでもない。
ましてやキリスト教によるはずもないから、ただ私の性格から自然にこのように信じるよりほかない。
もっとも論語には天の使命に関することが説いてある。
孔子は、『怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず』と言って、仏教のように三世(さんぜ)を説かないが、論語一編を通読すると、孔子も自分以外に自分を導くものがあることを信じていたようだ。
孔子自身もまたその一生を天の命じるところに捧げたのだろうと思う。
私はこの世に生まれた人は、いずれも天の使命を帯びていると信じているから、自分もまた社会のこと、公共のことには出来るだけの貢献をし、その使命を果たしたいと考えている。
単に実業家として一身の利益を図り栄達(えいたつ)を望むのなら、他に財産を蓄える方法があるかもしれないが、これは私の主義でない。
また死んでいくこの身が巨万を蓄え、これを子孫に遺すということもやりたくない。
ふだん私が公共のことに心がけて、一般の実業家とやり方をやや異にしているのも、要するにこの信念からきたものである。」

諸君、この続きは、明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月6日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート2

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート2」だ。

諸君、何故か今「論語」ブームなんだとか?
一昨年8月、北京オリンピックがありましたね。
その8月8日の開会式のセレモニーに、孔子先生が中国の長い歴史の中の、思想的な象徴として、上手に表現されていましたな。
ご記憶に残っておりますでしょうかねぇ~。
そんなことまったく興味がないという方もおおぜいおられるでしょう。
「論語読みの論語知らず」こんな成句は聞いたことありませんかね?
この文句なら知ってますかいな?
この成句の一般的解釈はね、書物の内容を頭で理解するだけで、それを社会生活の中でどのように実践すべきかに思い至らないことの例えとの意味なんだね。
渋沢栄一翁は、論語を人生哲学とし、さらに実践経営哲学に換言したんです。
つまり置きかえて渋沢流に作り上げたんだね。
算盤(そろばん)は実質的経済活動の象徴なんですな。
ズバリ! もうかるか? もうからないか? の算盤勘定のことだね。
渋沢さんは独自の、「道徳経済合一説」という理念を打ち出したんだ。
その目的はと言うと、「経世済民」(けいせいさいみん)なんだ。
ご存知の通り「経済」という言葉のもとになったものだね。
民のために、経済を発展させることによって、世を治め、民の苦しみを救うことの意味なんだがね。
早い話が、国民の生活を経済において豊かにしようというのがその主旨、本旨なんですよ。
幼少期に学んだ「論語」を拠り所に、人として守るべき道、つまり道徳と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国益と国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた偉い人なんだ。
儒学と陽明学と経済をかけ合わせた、渋沢の独特の経営哲学を通して、基幹産業やそれに付随する多種多様な企業の設立に関わった方なんだ。
今日はこれまで、この話の続きは、明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月5日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート1

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート1」だ。

諸君、毎年恒例の年中行事となった正月の2日と3日に行われている箱根駅伝はTVなどで御存知のことでありましょう。
ATAGO日記の1月3日のブログを見ていただければ、復路ゴールになっている読売新聞本社前までのアンカーのラストスパートの写真とともに感動の様子が書かれてありますよ。
私こと天風のブログと合わせて見てやって下さいな!
写真に写っている石の橋は「常盤橋」と言って、東京駅の日本橋口から日本銀行へ向かう途中にある橋なんですよ。
そこに小さな公園があるんです。
その公園の中央上段に「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一・青淵翁(しぶさわえいいち・せいえんおう)の立像があるんですよ。
別に立像や像はここだけではありませんが、知る人ぞ知る偉人でありますよ。
渋沢栄一翁故人においては、「日本資本主義の父」という尊号は非常にいやがっておりましたがね。
私の個人ごとですが「哲人天風」、これは非常に気に入っていますよ。
鉄人28号じゃありませんぞ。
黒子君がその公園近くをよく通るものですから、必ずその立像に向かってあいさつをしているんですよ。
それがいつの間にか黒子君の習慣となっているんだね。
その立像になった渋沢栄一氏だが、天保11年2月13日(1840年3月16日)生まれの私の大先輩にあたるんだがね。
この人は、私が好きなプリンシプルのある積極的な大人物なんですよ。
諸君も御存知の現在のみずほ銀行の創設者なんですがね、もっと諸君になじみあるのは必ずと言っていいほどTV等でCMを見ておられるだろう、かのキリンビール、そして、サッポロビールの創設者の一人なんですぞ。
この方がいなかったら、キリンビールやサッポロビールは無かったかもしれませんな。
別の名前のラベル名になっていたのかもしれないですぞ。
諸君知っておられましたかな?
ビール会社はいずれはできたとしても、なじみのキリンビールじゃない!ライオンビールとか白クマビール、ぞうさんビール、ドラゴンビール、ジャイアンツビールとかね?
サッポロビールは、箱根ビール、大黒(だいこく)ビールかもね?
どちらにしても、渋沢さんほど精力的にいろいろな事業を企業化した人はいないんですよ。
この話の続きは、明日また・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月4日月曜日

善いことは徹底してまねる パート16

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート16」だ。

諸君、本日より仕事初めの方もいらっしゃるでしょう。
初仕事ですな。
洗面所の鏡に向かって、ニコッと笑って、溌剌颯爽と気を入れて、気を引き締めて行きましょう!!
本日で「善いことは徹底してまねる」のテーマは一応のシメとします。
「善いことはなんでもいいから真似しろ、悪いことはうそにもかりそめにも真似するな」
この言葉を「らしく」で置きかえてみる。
「善いことはなんでもいいか『らしく』真似しろ!」
この言葉をさらに置きかえますよ。
「善いことはなんでもいいから真実そうなった『ごとく』徹底して真似る」
実際、模倣が極度に到達すると真実と寸分の相違のないようになるものなのである。
諸君、いずれにしても自己を完全に啓発し、自己を真実に向上させ人の世のために真に役立つという真人となろうためには、ひたすらこうした心がけで何でも善いことを「らしく」「ごとく」模倣することに専念するべきである。
そして、悪いということは、特に人の迷惑になるようなことは嘘でも「らしく」、それから「ごとく」真似をしないことだよ。
「オレ!オレ!詐欺(さぎ)」なんていうのは、悪いということの「らしく」「ごとく」の典型だね!
え~え、決して真似しちゃいけません。
いちいち私がくどく言わなくとも諸君は、すでにおわかりのはずだ。
このテーマで話してきました真理に鑑(かんが)みられて、自分以外の人の善きところや、自分でここのこれは良いことだと思うことは、進んで極力熱心に模倣されたい。
模倣の極致は本物です。
いずれ、諸君が本物になるからです。
そして、本物は、善き見本、お手本として諸君を見習うようになっちまうんですよ。
では、明日また・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風