2010年1月16日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート12

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート12」だ。

諸君、手前事なんだが、生前の中村天風は明治九年(1876)7月30日、今現在の東京北区王子に生まれたんですよ。
本人はおぼえてませんがね!
渋沢さんの邸宅がJR京浜東北線の王子駅の坂上の飛鳥山にあるね。
父は中村祐興(すけおき)、母テウの三男坊で生前の私の本名は中村三郎です。
私の著書等で、ご存知でありましょうが、父中村祐興は九州福岡の柳川藩主の立花家につながる出身で、渋沢栄一氏が退官した後に同じ大蔵省の役人になったんだね。
ここで渋沢哲学と天風哲学の共通点をあげて述べてみたい。
今回のテーマは、「論語と算盤と天風哲学と電卓」というテーマになっているね。
この電卓は、天風の生前中に開発されたものなんですぞ。
電子式卓上計算機の略でね、1964年(昭和39年)に商品化した製品としてはシャープが開発した日本初の電卓なんだね。
カシオが「答え一ぱつカシオミニ」なんて電卓のTVコマーシャルがあったね。
その後に日本や世界に電卓は普及していくことになったんですな。

今では、カシオも世界最先端の時計メーカーの一つになったものな。
もちろんシャープやカシオも電子辞書やハイテク機器メーカーでもあるがね。
シャープさんなんかはソーラーカンパニーをうたい文句にしているね。
ご存知の通りですよ。
諸君の携帯電話にも電卓機能が当たり前に入っているね。
そろばんじゃないよな。
時代の変遷によって、生成発展してきているんですな。
日々新たなりだね。
私は明治生まれ、渋沢さんは江戸天保の生まれだが、お互い90歳を超えての長寿であった。
ちなみに孔子様は73歳で他界しているとされているのだが、その当時の時代では長命だね。
今どきなら、90歳位に匹敵するのだろうかねぇ?
お互い両人とも、個人的にはエポックメーキングとなった画期的な新しいものが好きなんだね!
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを



天意天風

2010年1月15日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート11

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート11」だ。

諸君、昨日は「六十にして魂(たましい)の声に心の耳をそばだてるようによく聞くようになった」と述べました。
この次は、齢(よわい)「七十にして、心の欲するところに従えども、矩(のり)を超(こ)えず。」、この天風哲学的解釈は、人間の「心」はこの世に生きゆくための不可欠な要具である。
この要具である心が働くと思ったり考えたりする思考になるんだね。
心の働きはてぇっと、思ったり考えたりすることが仕事なんだ。
心が何にも思考していない時は、表向き心の要具は働いていないんですな。
そんなことは当り前だね。
その心の働いている状態をさして〈意識〉と言っているんですよね。

好きで好きでたまらない、愛しい人に片思い!
なかなか相手に直接言葉にして、告白出来ない。
諸君も経験ありますかい?
これって、片思いなんだから、相手のこと思ったり考えたりしている、心が働いている状態ですよね。
つまり、意識しているということだね。

孔子様は、長い月日の間に、意識しようとしまいとに関わらず、〈習慣は第二の天性〉と言われるように、潜在意識に心の天器が出来上がっていたものですから、無意識下であっても常に天に通じる心の状態になっていたんだね。
そして、矩(のり)は、宇宙の真理、宇宙法則のことです。
自我の心で思ったり考えたりすること、そして行為すべてが、宇宙の真理、宇宙の法則に自然とかなっている状態になったんだね。
孔子七十歳にして「思ったり考えたりする意識する習慣と実践行動が一つとなり、宇宙真理である生生化育進化向上に順応する私になりました・・・」 という大悟の心境だったんだろうね。
これが天風哲学でいうところの心身統一状態だね。
「論語」に表された、孔子様とその弟子達との生き様をとおして、天理に則した「天道」「地道」「人道」を天の導きを得て〈徳の道〉として表したんだね。
私はそのように解釈している。
天風に言わせれば、これが「王道」だね!
これが人生のロイヤルロードなんですよ。
これを知り、行うことが本来の「道徳」と感得している。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月14日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート10

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート10」だ。

諸君、五十で天命を知った孔子様だが、次の「六十にして耳順(したが)う。」までには、十年の歳月を費やしているね。
天風解釈では、この耳順うという意味は、顔の横についている耳ではありませんぞ。
「心の耳」のことなんだ。
「心耳-しんじ」。
つまり、心を耳にすることだね。
孔子の弟子や様々な多様な人間の意見にも素直に耳を傾けられるようになったんじゃないんだ。
自己の〈本然の自性〉、自我の本質である〈真我の扉〉が完全にオープンするのに十年の歳月がかかったんですよ。

天風さん、一体何のこと言っているんですか? 理解できませんよ!

ま~、そうでしょうな!
頭で、理屈で考えるとわかりませんぜ。
孔子様が四十までは、「いよいよ学んで、いよいよ苦しみ、いよいよ極めて、いよいよ迷う」と言ってます。
幼いころから学問して、様々な物事から知識を得てきた。
学べば学ぶほど、知れば知るほど、苦しくなる。
かえって何も知らないほうが余計なこと考えずにすんだのに!
突きつめれば、つめるほど迷い苦しくなってくるんだね。
はなから、知らなきゃ考えないね。
知らなければ、思いはしませんよ。
そうでしょう。
知らないことを考えるという人間はいやしません。
しかし、孔子様は人生かけて、命がけで、真我の霊門の扉をあきらめずに叩き続けたんだね。
「叩けよ、さらば開かれん」だね。
六十になって、真我を通じて、天の啓示なるものを心耳でよく聞き、天啓の示唆に素直に順うようになったんだね。
本日はこれまで、この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月13日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート9

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート9」だ。

諸君、孔子様が自身の天命をどこから知ったのか?
天風哲学にあえて照らし合わせてみると「本来の自己」「本然の自性」と呼んでいる「真の我」を通して、「天の啓示」を受けたんですよ。
何も言葉で「もしもし天ですが孔子さんですね。」「はいはい孔子です。」なんて電話で話をしたんじゃないでしょうがね?
天との回線が開通したんでしょうな。

大変な学問してるからって、心頭で考えて気づいたんじゃないですよ。
孔子様あてに、天命という名の天からの業務連絡があったんですな。
天からの業務連絡を天啓といいます。
孔子様の霊魂(スピリッツ)が第一番に受け取り、孔子様の心に伝達したんですな。
齢(よわい)五十でもうすでに天の啓示を受ける受け皿が大きく出来あがっていたものですから、天から甘露(かんろ)の法雨が彼目掛けて堰(せき)を切ったようにどんどん降り注いだんですな。
きっと、きっと、きっとね。
こうなると、理屈抜きで天の道理を知っちゃったんですよ。
「ああ~、なるほどそうなんだ!」
これって、天風哲学では自然承認(しぜんしょうにん)すると言っております。
自我小我の心と真我本心良心の心と天の意志たる心と一つながりになっちゃったんだね。
その刹那瞬間に天命という使命に気づかされたんだろうね。
ここで言っている天命はだね・・・
世間一般の通念概念で言われていることでなくして、刹那であろうと一瞬の「大我の大悟」であったんだ。
換言すれば、天意(あい)を知ったんだね。
私はそう確信する。
諸君はどう思われるかね?
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月12日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート8

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート8」だ。

諸君、いよいよ天命を知るにいたった孔子様のエピソードの原点だね。
昨日、お話をしたように、心と体は、この物理次元の人間世界の表現に不可欠の要具なんだと述べました。
諸君、わかっちまえば、そう難しいことではないんですよ。
わかっちまえば、「なぁーんだ、そんな簡単なことか、ずいぶんと、難しく考えていたが、心一つ素直になれば、実に単純なことだ。」と、自覚される時が訪れるんです。
自身の人生の体験、経験を通して、理屈抜きで、「なるほどなー、そうだなー、うん!うん!そうだ!そうだ!」って、勝手にうなずくようになっちまうんですよ。
諸君、ご存知の通り、諸君の本質である、真の自己は英語で言えば「Spiritsスピリッツ」、日本語で言えば「霊魂」ですよ。
この霊魂の意識を、霊性意識と呼んでいます。
みなさんの思ったり考えたりする心の働きである「自我の意識」と分けて、「真我の意識」とも呼んでいます。
諸君、霊魂たる真我が諸君の本来の自己なんです。
わかっている諸君は、もう常識ですね!
天風哲学では、「本然の自性」とか、「自我の本質」と呼んでおります。
肩の力を抜いて、「ああそういう考え方もあるんだ。」ぐらいに、受け入れて下されば結構ですよ。
そう、素直な心になってね!
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月11日月曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート7

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート7」だ。

諸君、「孔子様は、『天命を知る』は、どこから知ったのか? どうして知ることが出来たのか?」という疑問に答える前に、諸君の心や肉体が、「人間=自己」に対してどんな関係にあるかについて説明しよう。
心や肉体が人間そのもののように多くの人は認識されているが、本当のところは、ズバリ実はそうではないんですよ。
人間がこの世に活きるのに必要ないろいろな方便(ほうべん)を行うための道具という関係にあるんですよ。
哲学的にいえば、心や肉体は人間の個体生命の存在と生活とを確保存続させるに必要な不可分的生命付属物なんですな。
故に、心や肉体は、「人=自己」ではなく、ましてそれが「人=自己」本体ではないのであります。
諸君、これは人間創造真理でもあり、「本然の自性」と呼んでいる天風哲学の真骨頂であります。
そして、天風哲学の基本中の基盤、土台中の一番基礎になっている「真我の要諦」の要素の一つであります。
小難しくなってきましたので、背伸びでもして、長く、ゆったり深呼吸して、頭と体をほぐして下さいな。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月10日日曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート6

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート6」だ。

諸君、諸君の中にも生前の私の著書を手にとって読まれた方もおられるでしょう。
天風哲学の真骨頂は「人間は万物の霊長である。」という根幹に流れている絶対の真実である。
ここが一番大事なことであるが、特に忘れてはならないことは、万物の中でも人間は、宇宙根本の創造エネルギーの分派分量を最も多く頂戴しているということだ。
ヨガ哲学では「先天の一気」と呼んでいるんですよ。
人間以外の生命が真似(まね)することのできないほど、まことに多くの分量をいただいている。
故にこのことが、人間が自然物の中で霊長といわれる所以があるんです。
けっして人間のおごりでそう言っているんじゃないんですぞ。
天風哲学は、造物主が人間を万物の霊長として創造された、人間本来の面目とは何かを、私の生涯かけての体験経験から問うて、探究して、導き出した実践哲学なんですよ。
その目的は、万物の霊長たる本来の人間に立ちかえること。
そして、本来の人間として生きることなんですよ。
生前はこのことを真人間として真人生を生きることを天の導きを得てお伝えしていたんですよ。

「天風哲学は、本来儒教や仏教、神道などをはじめ、多様な宗教や哲学を『打って一丸』としたものであり、日々に自ら実践し、行うものであり、人生という社会生活の現場に活かしてこそ意味がある。 単なる知識だけの修得では、『論語読みの論語知らず』と同じことで意味がない。」

これは私の生前に述べた言葉なんですぞ。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月9日土曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート5

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート5」だ。

諸君、「論語」、為政(いせい)篇四章をかみくだく前に、御参考までに一般的に、このように訳されているんですよ。

「私は十五歳の時に学問によって身を立てようと決心した。」
「三十歳で自分の立場ができた。」
「四十歳で自分の方向に確信を持った。」
「五十歳で天から与えられた使命を自覚した。」
「六十歳で誰の意見にも素直に耳を傾けられるようになった。」
「そして七十歳になると、自分でおさえる努力をしないでも調和が保てる自在な境地に達した。」

「論語」は、約二千五百年前の孔子(孔丘 こうきゅう)を中心とする人間集団のエピソードの対話記録であるからして、孔子の言行を主とし、弟子たちとの対話、弟子たち自身の言行などを孔子の没後、編集したものであるから、長い歴史の変遷を経ながら、様々な方々に、様々な解釈をされてきたんですよ。
解釈する方のとらえかた、考え方に、またその方の時代の背景や、境遇、おかれた立場において、多少意味合いが、表現が異なっているんですな。
「論語」は、長きの間、人間倫理道徳の規範として未だに使われている以上、人間真理を表現しているからこそであり、人間くさいが故、生きていく指針、実践とするうえでは、分かりがよかったんでしょうがね。
諸君もそのことをふまえて、私の話をよく聞いて、自分のものとして、よく咀嚼(そしゃく)して頂ければ結構だ。
諸君の心一つのとらえどころ、考えどころですからな。

五十歳にして天命を知るに及んだ孔子様だが、自身の天命をどこから知ったのかというのが、疑問で知りたいところだね。
自分に置きかえれば、諸君も
「私の、俺の天命ってなんだろうか?」
知りたいと思いますでしょうよ。
天風に言わせれば、解釈一つでそのヒントが隠されているんですよ。
ましてやこれから立って行こうとする方であれば当然であろうよ!
それは「五十歳で天命を知る。」「六十にして耳順(みみしたが)う。」
ここなんだ!
ここを注目の的にしたんだね!
この順番とその解釈で、まったく意味が異なるんですよ。
諸君、ここで言う天風流「論語」解釈の中心基軸になるものがあるからなんだ。
この話の続きは明日また。
では・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月8日金曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート4

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート4」だ。

諸君、「論語」の中によく、引用される有名な一説がある。
孔子先生、辞世(じせい)を詠(よ)んでの弟子との会話だとされているものです。

子曰く、
「十五にして学を志す 三十にして立ち 四十にして惑(まど)わず 五十にして天命を知り 六十にして耳順(みみしたが)う 七十にして心の欲(ほっ)する処(ところ)に従(したが)えども矩(のり)を超(こ)えず」

諸君も、どこかで読んだり、聞いたことがあるでしょうよ。
天風流に解釈すると、孔子先生が言われるには、
十五歳で学問で身を立てていこうと志(こころざ)した。
三十歳になって学問のあるおかげで重用(ちょうよう)され、立身出世した。
四十歳になって己(おのれ)のなすことに信念がもてるようになり、心が迷わなくなった。
五十歳にして天から与えられた天分の自分の使命に気づいた。
六十歳にして自我の心の耳が我が内なる真の自己を通じて、内なる声、天の声、天の啓示の声に素直に心の耳をかたむけてよく聞くようになった。
七十歳にして自我の心の働きである思ったり考えたりする意識のままに行動しようとも天の摂理(せつり)に自ずと沿うようになった。

孔子七十歳を超えての大悟の気づきであると天風は解釈している。
明日は、上記の内容をかみくだいて話をすることにする。
では・・・。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月7日木曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート3

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート3」だ。

諸君、「論語」は、孔子と弟子の対話による言行録であることは、今さら偉そうに言うまでもありませんな。
その「論語」を通して、孔子と弟子のやりとりで、孔子の処世術や孔子の性格やその意味を、渋沢哲学と天風哲学に照らし合わせて考察してみたい。
また、渋沢哲学と天風哲学は、真理を表現している一つの側面として、そのプリンシプルとなる柱(はしら)は、相通じるものがある。
ここでは、諸君に天風の「論語」観を少しずつ述べてゆきたいと考えている。
天風さん、何を言いたいんだいと問われれば?
天風流「論語」観を中心基軸にして、論語を解釈するとどんなとらえ方、考え方になるかということだね!!
わかりにくいかい?
つまり、天風流のものさしやスケールでの新説「論語」解釈ですよ。
まず、渋沢さんと天風の相通じる共通の側面は、渋沢さんが生前にこのように述べているんだよ。

「世に生まれ出たのは、直接には父母の恵みであるが、本源は、造物主であって、何事かやるべき使命を与えて、自分をこの世に出したのだから、使命を全うするのは人間の義務である。
才能がある者はあるだけ、また少ない者も少ないだけの才能を用いてそれぞれ力を尽くすのが、人としてこの世に対する義務であると私は確信している。
私自身、ここに人生の方針の基準を置いている。
これは必ずしも『論語』から得たものでもなければ、仏教や神道に学んだわけでもない。
ましてやキリスト教によるはずもないから、ただ私の性格から自然にこのように信じるよりほかない。
もっとも論語には天の使命に関することが説いてある。
孔子は、『怪力乱神(かいりきらんしん)を語らず』と言って、仏教のように三世(さんぜ)を説かないが、論語一編を通読すると、孔子も自分以外に自分を導くものがあることを信じていたようだ。
孔子自身もまたその一生を天の命じるところに捧げたのだろうと思う。
私はこの世に生まれた人は、いずれも天の使命を帯びていると信じているから、自分もまた社会のこと、公共のことには出来るだけの貢献をし、その使命を果たしたいと考えている。
単に実業家として一身の利益を図り栄達(えいたつ)を望むのなら、他に財産を蓄える方法があるかもしれないが、これは私の主義でない。
また死んでいくこの身が巨万を蓄え、これを子孫に遺すということもやりたくない。
ふだん私が公共のことに心がけて、一般の実業家とやり方をやや異にしているのも、要するにこの信念からきたものである。」

諸君、この続きは、明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月6日水曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート2

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート2」だ。

諸君、何故か今「論語」ブームなんだとか?
一昨年8月、北京オリンピックがありましたね。
その8月8日の開会式のセレモニーに、孔子先生が中国の長い歴史の中の、思想的な象徴として、上手に表現されていましたな。
ご記憶に残っておりますでしょうかねぇ~。
そんなことまったく興味がないという方もおおぜいおられるでしょう。
「論語読みの論語知らず」こんな成句は聞いたことありませんかね?
この文句なら知ってますかいな?
この成句の一般的解釈はね、書物の内容を頭で理解するだけで、それを社会生活の中でどのように実践すべきかに思い至らないことの例えとの意味なんだね。
渋沢栄一翁は、論語を人生哲学とし、さらに実践経営哲学に換言したんです。
つまり置きかえて渋沢流に作り上げたんだね。
算盤(そろばん)は実質的経済活動の象徴なんですな。
ズバリ! もうかるか? もうからないか? の算盤勘定のことだね。
渋沢さんは独自の、「道徳経済合一説」という理念を打ち出したんだ。
その目的はと言うと、「経世済民」(けいせいさいみん)なんだ。
ご存知の通り「経済」という言葉のもとになったものだね。
民のために、経済を発展させることによって、世を治め、民の苦しみを救うことの意味なんだがね。
早い話が、国民の生活を経済において豊かにしようというのがその主旨、本旨なんですよ。
幼少期に学んだ「論語」を拠り所に、人として守るべき道、つまり道徳と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国益と国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた偉い人なんだ。
儒学と陽明学と経済をかけ合わせた、渋沢の独特の経営哲学を通して、基幹産業やそれに付随する多種多様な企業の設立に関わった方なんだ。
今日はこれまで、この話の続きは、明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月5日火曜日

論語と算盤と天風哲学と電卓 パート1

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「論語(ろんご)と算盤(そろばん)と天風哲学(てんぷうてつがく)と電卓(でんたく) パート1」だ。

諸君、毎年恒例の年中行事となった正月の2日と3日に行われている箱根駅伝はTVなどで御存知のことでありましょう。
ATAGO日記の1月3日のブログを見ていただければ、復路ゴールになっている読売新聞本社前までのアンカーのラストスパートの写真とともに感動の様子が書かれてありますよ。
私こと天風のブログと合わせて見てやって下さいな!
写真に写っている石の橋は「常盤橋」と言って、東京駅の日本橋口から日本銀行へ向かう途中にある橋なんですよ。
そこに小さな公園があるんです。
その公園の中央上段に「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一・青淵翁(しぶさわえいいち・せいえんおう)の立像があるんですよ。
別に立像や像はここだけではありませんが、知る人ぞ知る偉人でありますよ。
渋沢栄一翁故人においては、「日本資本主義の父」という尊号は非常にいやがっておりましたがね。
私の個人ごとですが「哲人天風」、これは非常に気に入っていますよ。
鉄人28号じゃありませんぞ。
黒子君がその公園近くをよく通るものですから、必ずその立像に向かってあいさつをしているんですよ。
それがいつの間にか黒子君の習慣となっているんだね。
その立像になった渋沢栄一氏だが、天保11年2月13日(1840年3月16日)生まれの私の大先輩にあたるんだがね。
この人は、私が好きなプリンシプルのある積極的な大人物なんですよ。
諸君も御存知の現在のみずほ銀行の創設者なんですがね、もっと諸君になじみあるのは必ずと言っていいほどTV等でCMを見ておられるだろう、かのキリンビール、そして、サッポロビールの創設者の一人なんですぞ。
この方がいなかったら、キリンビールやサッポロビールは無かったかもしれませんな。
別の名前のラベル名になっていたのかもしれないですぞ。
諸君知っておられましたかな?
ビール会社はいずれはできたとしても、なじみのキリンビールじゃない!ライオンビールとか白クマビール、ぞうさんビール、ドラゴンビール、ジャイアンツビールとかね?
サッポロビールは、箱根ビール、大黒(だいこく)ビールかもね?
どちらにしても、渋沢さんほど精力的にいろいろな事業を企業化した人はいないんですよ。
この話の続きは、明日また・・・
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月4日月曜日

善いことは徹底してまねる パート16

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート16」だ。

諸君、本日より仕事初めの方もいらっしゃるでしょう。
初仕事ですな。
洗面所の鏡に向かって、ニコッと笑って、溌剌颯爽と気を入れて、気を引き締めて行きましょう!!
本日で「善いことは徹底してまねる」のテーマは一応のシメとします。
「善いことはなんでもいいから真似しろ、悪いことはうそにもかりそめにも真似するな」
この言葉を「らしく」で置きかえてみる。
「善いことはなんでもいいか『らしく』真似しろ!」
この言葉をさらに置きかえますよ。
「善いことはなんでもいいから真実そうなった『ごとく』徹底して真似る」
実際、模倣が極度に到達すると真実と寸分の相違のないようになるものなのである。
諸君、いずれにしても自己を完全に啓発し、自己を真実に向上させ人の世のために真に役立つという真人となろうためには、ひたすらこうした心がけで何でも善いことを「らしく」「ごとく」模倣することに専念するべきである。
そして、悪いということは、特に人の迷惑になるようなことは嘘でも「らしく」、それから「ごとく」真似をしないことだよ。
「オレ!オレ!詐欺(さぎ)」なんていうのは、悪いということの「らしく」「ごとく」の典型だね!
え~え、決して真似しちゃいけません。
いちいち私がくどく言わなくとも諸君は、すでにおわかりのはずだ。
このテーマで話してきました真理に鑑(かんが)みられて、自分以外の人の善きところや、自分でここのこれは良いことだと思うことは、進んで極力熱心に模倣されたい。
模倣の極致は本物です。
いずれ、諸君が本物になるからです。
そして、本物は、善き見本、お手本として諸君を見習うようになっちまうんですよ。
では、明日また・・・
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月3日日曜日

善いことは徹底してまねる パート15

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート15」だ。

諸君、正月の三箇日(さんがにち)の三日目ですね。
もう初詣には行かれましたか?
さすがに新年はにぎやかでしょうな!
このときばかりお賽銭をなげ入れて、二礼二拍手一礼をする。
心の中はていうと、願いの叶わぬことでも、この際お願いできることは、神頼みでも仏頼みでも何でもかまいやしない。
この不景気もう切羽詰まっているから形振(なりふ)りかまってられない。
願えるだけ願ってお願いしちまおうって、ま~そんなところしょうかね?

京都栂尾(とがのお)の明恵上人(みょうえしょうにん)が檀家(だんか)の信者に向かって言った。
「七日七夜のあいだ、茶断ち、塩断ちしてござれ。」
昔の人は、茶断ち、塩断ちが、六根清浄のはじまり、序の口のおきまりだったのかねえ?

明恵上人はいつごろの人かというと、鎌倉初期(1173~1232)の僧で、紀伊の人。
辞典に出てるプロフィールです。
華厳宗の中興の祖。
諱(いみな)は高弁。
高雄山の文覚に師事し、のち紀伊白上の峰で修行した。
後鳥羽上皇から栂尾山を賜り、高山寺を創建して、華厳宗興隆の中心道場とした。
戒律を重んじ、著書「摧邪輪」で法然を批判。
また、宋から将来した茶を栂尾山で栽培した。

とある。
そして七日七夜のあいだ茶断ち、塩断ちして、やっと安心立命のおさとしを受けることができると思って、喜びいさんでお寺へ来ると、明恵上人さん、「本堂にござれ。 ご本尊の前でおさとしをお聞かせしよう。」
ここは「盛大な人生」に述べてある通りだね!!
それで明恵上人は、自分の持っている大上人(だいしょうにん)の位の僧服を身につけられて、本道に出られて、須弥壇(しゅみだん)の上から、「よく承(うけたまわ)れ」
「ハハッ」と手をついて檀家(だんか)の信者がひれ伏すと、「安心立命の大義というのは難しいことではござらん。 ただ一言(ひとこと)ですむ。 ようく耳をそばだてて聞きめされれや。 安心立命の大義はのう『らしく』しなされ。 『らしく』生きなされ。 これだけじゃ。」と、こう言った。
聞いた信者はびっくらこいちゃった。
どういう難しい、尊いことを言ってくれるかと思ったら、「らしくしろ、らしくしろ」。
これはとりもなおさず、模倣なるものは、言いかえると真似事というものは、「らしく」する。
それから先は「ごとく」する。
善いことは真実となった「ごとく」徹底して真似る。
その極致に到達すると真実と同様になるぞよ。
これがあらゆることにも通ずる極意でもある。
この話の続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2010年1月2日土曜日

善いことは徹底してまねる パート14

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート14」だ。

諸君、初夢は見ましたかな?

一度も経験したことのないことが、いつかどこかですでに経験したことであるかのように感じられることをフランス語で〔deja-vu〕デジャビュと言いますね。
日本語では既視感と言います。
これは霊性意識からのインスピレーションですね。
つまり霊魂の意識からの示唆とも言えます。
夢を見ることもその一つの示唆やメッセージでもあるわけですね!
すべてとは言いませんが、心の中のゴミや垢(あか)の掃除がきれいに出来てきますと、自ずと、霊感とか霊能といちいち言わなくとも、閃きや、インスピレーション、直感、第六勘と言われているものが、自ずと発露するもんなんですよ。
ただ、それに気がつかないか、自覚していないだけなんです。
〈特別にこの世ならざる力が働いて突然霊感が働いて霊能者になった〉、そのような方もおられるでしょう。
しかし、人間は良い意味で、誰一人もれおつことなく、先天的に霊能力者なんですよ。
私はそう思う。
このごろは見えざるものが見える、聞こえざるものが聞こえるという方は、もう珍しくもありませんね。
霊感・霊能と言っておりますが、人間の本質は永遠不滅の霊魂なんですよ。
これは、いまさら言うまでもない真実であります。
「らしく」すれば霊感が出てくるのはしごく当たり前、当然のことなんですよ。
人間本来に生きるには、人間本来の面目のプリンシプル(原理・原則)に合わせて、「らしく」生きることですよ。
人間本来の面目とは、自分の本来の姿であり、真実の自己である諸君の霊魂のことですよ。
これが、真我と呼んでいる真実の自己のことです。
自我の心、小我の心が真実の自己に気づいて、積極的によくそれに合わせていくことが、私が言っている、「らしく」生きる生き方、考え方です。

「万物の霊長たる人間として生まれたんだから、生んでくれたんだから、そのことを自覚して、感謝して、まず、『万物の霊長たる人間らしく』生きましょうよ」

という新年にあたっての天風から諸君への提案であります。

本日はこれまで。
この続きは明日また。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2010年1月1日金曜日

2010年、平成22年の新年のごあいさつ

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「2010年、平成22年の新年のごあいさつ」であります。

諸君、新年明けましておめでとうございます。
一年(いちねん)の計(けい)は元旦(がんたん)にありと言いますね。
今年の計画は元旦に立てるということだね。
2010年、平成22年の1年365日は本日より初一日、初一歩が初まるんですね。
諸君の初一年、初一念の計画を立ててみてはいかがでしょうかね。
一日の計、一年の計、一生の計、一家(いっか)の計を四計と言いますね。
今年一年は、私こと天風は、
「積極一貫銘心堅固(せっきょくいっかんめいしんけんご)」
でいきますよ!
積極とは「尊い心」「強い心」「正しい心」「清い心」を合わせての意味ですね。
銘心堅固とは、心に刻みつけ、しっかり定めて動かないことの意味ですよ。

『積極の真意の尊く、強く、正しく、清くを心に刻みこんで、しっかり定めて不動の心としましょう!』
ということです。

この言葉をそえて、諸君が、宇宙真理に順応し、正々堂々健康と運命の勝利者としての現実を自身のものとして、ますます発揮されんことを心中真心より祷(いの)りまして、天意天風の新年のごあいさつといたします。
今年一年、真我とともにありますように!

天意天風

2009年12月31日木曜日

善いことは徹底してまねる パート13

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート13」だ。

諸君、もう一つ寝るとお正月だね。
え~え、本日はジョヤノカネとともに、1月1日の元旦を祝うお祝いのカネとしましょうね。
私は、世間が狭いものですから、煩悩をはらうというより諸君のことや日本のことや世界の人々や人間の真我のことが、気になるんですよ。
本音を言えば、色々な目に見えないことや既成概念的に影響を受けている諸君に、本来、万物の霊長としての貴重なことをバンバン言っていきたいのだけれど、今は言えないんだが、生前、天風哲学なんて、この世の肉体を持っていることに限定をせざるおえない時代であったものだから、そんなこの世、こんなあの世、なんて限定しちまって、ちっちぇえ世界だなって錯覚していましたよ。
生前にね、肉体を持っているときに限定していたこの世の一生は一生だとしたんだが、それは純粋に鑑みれば、矛盾でした。
真理は、この世もあの世も真理です。
この世の人間真理は、宇宙真理ゆえ、あの世にもはたらく真理に他ならないんですよ。
私は、新たな人類の人間の真理はこの世のあの世を分け隔てなく、人間真理、宇宙真理として同時に当然のこと考えても受け入れられる次元を超越した世界でもある。
特に2013年以降の節目にやっとのぞむように訪れる時がくるんですね。
除夜の108つの鐘の煩悩を去り、その時代の機会を得て、この時勢の勢いをかりて、元気いっぱいガンガンいきますよ。
諸君、覚悟はよろしいですかいな。
よっしゃ、いくぞ!
心のゴミや垢を取り去り、心新たにきれいにして颯爽溌剌たる新鮮な元気で日々更新し、日々新たなりの気持ちで大晦日から新年を迎えるカウントダウンをしようよ!!
いいですかい!!
諸君、元気よく積極的に新年をお迎えいたしましょう!
すべてを新たにしてみんなみんな真心より感謝と愛している!!と大声でゆく年くる年の時の境で宣言して叫びましょうよ!! ね!!
紅組のトリはDREAMS COME TRUE だね。
いいかい!! いくぞ!!
カウントダウン 3・2・1・0!
諸君、明けましておめでとうございます。
諸君のかけがえのない命を大切にしてください。
今年一年幸多かれと心中より感謝し、祈っております。

天意天風より

2009年12月30日水曜日

善いことは徹底してまねる パート12

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート12」だ。

諸君、「朱(しゅ)に交(まじ)われば赤くなる」という成句がありますが、お耳にしたことあるでしょうよ。
人は交わる友、または環境によって、良くも悪くもなるという意味ですな。
レインボーカラーに交わればレインボーカラーになるのかな?
どうだろうかね。
生前の私の著書「盛大な人生」の中に「十牛訓」(じゅうぎゅうくん)という禅の教えでね、つまり修行の段階と心の階梯とその境地というものを説いた、禅のほうでいうと非常に厳しい教えを天風流に人生真理に照らし合わせて説いたんだね。
よろしかったら「盛大な人生」を読まれると出てくる話です。
京都栂尾(とがのお)の明恵上人(みょうえしょうにん)という人が、安心立命(あんじんりゅうみょう)の大義を檀家(だんか)の信者に説いた話に、「らしくせよ」というのがあるんですよ。
「らしくせよ」です。
ねえ、人間で生まれてきたのにね、人間でなくなっちゃった。
よくいうでしょ、「私らしくしたわ!」この「らしく」だね。
ある檀家の信者が、「毎度のお説教で、もうすっかり私の心の中のよごれや垢は取れたように考えますけれども、ただ一つこのごろヒョイと自身の心をのぞいてみますると、死んだ後(のち)がどうなるだろうか? このまま一体どんな人間になるであろうか? この家の商売の行く末はどうなるであろうか? ということを考えましてな。 おっしゃるとおりの安心立命というような気持になれませんでございます。 もうとる年でございますので、お迎えを待つだけではござりまするけれども、まだ悟りが足らないと思いますので、どうぞ、そこをひとつおさとしをお願いたいものでございます。」
そうしたらね、明恵上人「それはいとやすきことながらのう、人間、今生(こんじょう)の御大事(おんだいじ)じゃ。 心も身も清めてござれ。 『六根清浄(ろっこんしょうじょう)』してからおさとしいたそう。」と、さももったいぶって言ったんだろうね。
「六根清浄」というのは、仏教の用語でね。
感覚や意識をつかさどる六つの器官とその能力を表現したもので、すなわち、眼根(げんこん)、耳根(にこん)、鼻根(びこん)、舌根(ぜつこん)、身根(しんこん)、意根(いこん)の六つの根からなる総称で、六根の執着を断ち、清浄な精神を所有し霊妙な術を修得することにあるとされている。
はやいはなし、霊妙な術とは一言でいえば「霊感」のことなんだがね。 
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを

天意天風

2009年12月29日火曜日

善いことは徹底してまねる パート11

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート11」だ。

諸君、昨日の話の引き続きですな。
話があちこちとんでしまったがね。
昨日は私の恩師 頭山満(とうやまみつる)翁(おう)の話をちょっとだけしました。
大辞林の辞典には、私の名前は出てこないんですが、頭山先生は載っていますな。
知らない方のために大辞林に記載されているプロフィールをまずは御紹介しましょう。

〈頭山 満〉(1855-1944)
国家主義者。 福岡県生まれ。
萩の乱に参加して入獄後、自由民権運動に参加。
のち玄洋社を結社。
国家主義に転じた。
大アジア主義を唱えて大陸進出に暗躍し、黒竜会・大陸浪人などを支配する右翼の巨頭的存在となった。

とまあ、こんな解説ですな。
私の生前の著書をお読みになれば、頭山恩師の人となりは、多少とも御理解いただけるでしょうかな?
「天真は流露」を地で行く生き方をされた、胆の太い腹の据(すわ)った人物でしたよ。
「真理のひびき」に述べたとおりでありますがね、あらためてここで掲載させて頂くこととしますよ。
明治35年、私が26歳のときでしたね。
陸軍参謀本部諜報部員として厳しい特殊訓練を受けたあと、満蒙の地に潜入して、諜報活動をすることに従事することになったんですよ。
つまり任務は、「ロシア軍の情報収集と偵察せよ!」だったんだ。
今どきのHISかJTBで中国奥地に観光旅行ツアーに行くんじゃないんですからね。
生きて帰れるかわからない、否、生きて帰れないことは必定!
仕事柄、「靖国であい見(まみ)えよう」がお互いのあいさつになっていたんですよ。
さりとて、お互いにわかっちゃいるが、仕事が仕事ですから「何しにいくか?」「ああで、こうで」なんてね、明かしちゃいけないんですよ。
軍の機密ですからして・・・
もともと恩師は余計なことは聞きも言いもしません。
そんな方でしたよ!
実は、これが最後になるとの覚悟の〝いとまごい〟に参上したときの恩師の言葉ですよ。
「できるだけ善かことは、極力真似することばい。 そして人に迷惑かくるような悪かことは決して真似するでなかぞ」と懇(ねんご)ろに言われたんですよ。
後からよく考えてみれば、これから死にに行く人にこんなこと言いやしませんよ!
「おはんは必ず成長して生きて帰ってこんしゃい。 じゃどん、今、ひとときの別ればい!」との励ましとはなむけの言葉だったんだな。
うれしいね!
私に対する真心からの恩師の思いやりの言葉でしたよ。
諸君、この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風

2009年12月28日月曜日

善いことは徹底してまねる パート10

諸君元気ですかい、天意天風であります。
本日の一日一話。
天風人語のテーマは「善いことは徹底してまねる パート10」だ。

諸君、「善いことは徹底してまねる」というテーマで語ってきました。
「善いこと」を徹底してまねるということの「善いこと」の真意は、なへんにあるか。
ここらへんの大切なことを御理解されないと、何でもまねすりゃいいんだと、単なるうわっらだけのサルまね、人まねになって、「仏の像の形だけつくって中身の魂(たましい)入れず」ということになりかねんからな。
往々にしてあるというよりほとんどがこれだ。

御存知かもしれんが、私の恩師、頭山満(とうやまみつる)翁(おう)の居室に、西郷隆盛がこよなく好まれた言葉「敬天愛人」と書かれた額が掲げてあったのを、あるとき野田大塊(のだたいかい)が見て、「こりゃ偽物たい」と言うと、ニコニコしながら、「偽物でも何でも文句が善かけん、おいどんは本物だと思うて朝夕有りがたく心の鏡として見とるよ」と、こともなげに言われた。

どんな言葉でも人間真理を表した言葉は、とらえる人間および、とらえ方において、含蓄の深い意味がこめられているのもだ。
頭山恩師は西郷南洲翁をこよなく尊敬されていた。
書が本物かということよりも、書かれている言葉に西郷さんを良師とし、良師が指針とされていた言葉は、師の言葉として、また心の鏡として、また至心としていたんだ。
私は二人のやりとりの一部始終を傍らで耳にした。
なるほど模倣に対する結局は、その心の思い方、考え方で、それが人生観となり、心のとらえ方、受け方となって、何事においても、ひょんな出来ごとでも、何気なしの出来ごとであっても対人態度、交人態度、自身の人生態度になってあらわれ出てくるものなんだとつくづくその言葉から計り知れない尊いものを直感したものである。
今日はこれまで。
この話の続きは明日また・・・では。
今日一日、真我とともにあらんことを


天意天風